冤罪の構図 -13

 嘘の自白をすること、あるいは嘘の自白をさせられること、これが冤罪を生み出す最大の要因であることは、多くの人が指摘している通りです。

 何の罪も犯していないのに、何故『罪を犯しました』と喋ってしまうのでしょうか。実は私自身も長い間疑問に思っていました。第二次大戦後だけでも、数多くの冤罪事件が取り上げられ再審請求がなされているのですが、それらは果して本当に冤罪だろうかという一抹の疑いを拭い去ることができなかったのです。厳しい取調べの末、やむなく嘘の自白をしてしまい、法廷では自白をくつがえして無実を主張するものの、時すでに遅し、取調べのときに行った嘘の自白がそのまま真実のものと認定されて、強盗殺人などの場合ですと死刑という極刑が下され、それを受けて度重なる再審請求がなされたりしているのは事実です。このような場合、本当に冤罪であれば誠に気の毒なことだとは思いながらも、警察だけが勝手にしていることではなく、良識ある(と信じていた)検察が責任をもって立件し、それを受けて、裁判も地裁、高裁、最高裁と三つの段階でチェックしている訳で、冤罪というのは本当なのかな、という思いを払拭(ふっしょく)できなかったのです。

しかし、このような一抹の疑念は、私自身が冤罪の当事者になることによって見事に吹き飛んでしまいました。社会正義の最後の砦として自他ともに任じていた検察が、あろうことか私に対して暴力団顔負けの不法行為を仕向けてきましたし、裁判官に至っては、“疑わしきは罰する”とばかりに十分な吟味を行なわないままに、そのような検察と歩調を合わせて判決文を書いているのです。私の事件に関していえば、検察が偽って断罪した中で中核的なものは、日本一の脱税と騒ぎたてた巨額脱税事件でしたが、検察のデタラメぶりがあまりにもヒドかったからでしょうか、裁判官としてはどのようにいじくり回しても有罪とすることができなかったというのが実態です。これについては、検察の言い分に少しでももっともらしい理があったなら、必ずや有罪としていたことでしょう。
 そもそも有罪とするには、合理的な疑いが残らないように証拠によって証明しなければならないとされていますが、これは教科書の上でのタテマエにすぎません。現実の裁判は、犯罪の疑いが少しでもあれば、証拠と称するもっともらしいものをかき集めて有罪としてしまっているようです。合理的な疑いがあろうがなかろうがお構いなしです。申し訳ていどに付録として付け加えられた別件で有罪(執行猶予付の二年の懲役)になった私の場合がまさにこれにあてはまります。本来は独立不羈(ふき)の立場であるはずの裁判官が、検察に気を配り、人事権者である法務官僚の顔色をうかがっているのです。国民の命、財産、名誉など、単なる役人と化した裁判官からすれば、とるに足らないどうでもいいことなのでしょう。日本の刑事裁判における99.7%という驚異的ともいえる有罪率の背景には、志(こころざし)を喪失した検察官と裁判官のモラル・ハザード(倫理観の欠如)があると言っても過言ではありません。

 このことは、制度面から言えば、日本における訴追裁判システムが制度疲労を起しているということです。冤罪事件の多くは、検察官と裁判官の人倫の荒廃にもとづく制度疲労によって惹き起こされているのです。
 したがって、嘘でもなんでもひとたび犯罪の自白をしたが最後、エスカレータ式に有罪判決へと行ってしまいます。このような現実があるにも拘らず、何故検事の前で、してもいない犯罪の自白をするのでしょうか。嘘の自白が自身だけでなく、場合によれば、他の無実の人を巻き添えにすることが分かっていながら、何故嘘をついてしまうのでしょうか。

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 ここで一句。

“えん罪を作った罪はうやむやに” -北九州、森友紀夫。

(毎日新聞、平成19年8月10日号より)

(昔、人の噂も七十五日。今、ネットに飛ばせば永遠だ。)

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