縁結びということ-2
- 2013.07.30
- 山根治blog
“袖振り合うも多生(たしょう)の縁”
(道行く知らぬ人と袖が触れ合うことさえ宿縁による。すなわち、ちょっとした出来事もすべて宿世の因縁によるという意。-広辞苑)
という諺がある。
「縁結び」が仏との結びつきに始まって、物事との結びつき、人と人との結びつきを経て、男女の結びつきに至ったことは前回述べたところである。
現在「縁結び」については、第一義的には男女の結びつきがイメージされるようになっているとはいえ、イメージした意識の背後には必ず、もともとの仏との結びつきという観念が存在する。抜け難い潜在的な観念である。
このことを端的に示しているのが、上記の諺だ。
男と女の出会いがある。「あふ」である。
あるいは「みる」である。
たまたま出会った男と女、いつしか関係が深まり結ばれる。望んだからとてできることではない。全て前世からの約束事、宿世の因縁によるものだ。
冒頭の諺に加えて、上記3つの歌は、日本人の男女の出会いと結びつきの根底にある観念についてあますところなく唱い上げている。
「縁結び」の対極にあるものとして、「縁切り」がある。「親子・夫婦などの関係を絶って、他人の関係となること。絶縁。」(広辞苑)のことだ。つまり、「縁切り」は、結ばれた縁が前提となっている。この前提が解消されることを、「縁切り」と言っている。いわば事後の「縁切り」だ。
では、縁が結ばれる前はどうか。ここに事前の「縁切り」が登場する。出会う前に身ギレイにすることだ。身にまといついた罪・穢(けが)れを取り除くのである。
古来日本人は、罪・穢れを払いのけるためにミソギを行ない、ハライを受けてきた。新たな物事との取り組み、あるいは新たな人々との出会いにそなえて、身ギレイにしておく。水に流して罪・穢れを消してしまうのである。
ケガレをハライ・浄める、このような考え方は日本人特有のものだ。もともとの仏教には存在しない。儒教にも道教にも存在しない。神ながらの道があるとすれば、神に対峙する姿勢であると言ってもよい。具体的には、「明(あか)き、浄(きよ)き、直(なほ)き誠の心」(続紀、文武元年八月、宣命第一詔)のことだ。
この「明」、「浄」、「直」の3つは、天皇が臣下に求める忠誠心のことであるが、神が介在しているのは言うまでもない。
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ここで一句。
(笑いのとれないお笑いだったりして。)
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