かごめの歌-補足

「かごめかごめ」の童謡の補足。



 江戸時代の終り頃から明治時代の初めにかけて、出雲国杵築(きづき。大社町のこと)に2つの歌人結社があったという。鶴山社中と亀山社中である。前者は千家国造が、後者は北島国造が主宰する結社であった。



 まず、「鶴山社中」。『「社中」とは地域を中心とした同門の集まりをいい、ここでは千家国造館の裏山の名(鶴山)に因む命名で、歌人結社である。この主宰者は千家尊孫(たかひこ。1796-1873。第78代国造)で、天保年間(1830-1844年)の初めころ、国造就任(1832年)後すぐにでも結ばれたと思しく、明治時代(1868年~)初めころまで活動したとされている。』(芦田耕一、「江戸時代の出雲歌壇」P.61)

次に、「亀山社中」。

『実は杵築にはもう一つ社中があった。「自点真璞集」(千家尊孫私家集)に、両社中の男どもつどひて山松といふ題をよみける日
“鶴かめと名をわく山も松風の千代よぶ声はへだてざりけり”
とある。
 実はこれの短冊が残されており、「卯月ばかり佐草美清がいえに両社中のをのこども集ひて、山松といふ事を詠ける日よみてつかはしける」として詠歌状況がより具体的であり、歌も
“つるかめと名をわく山のまつかぜも千代よぶ声はへだてざりけり”
と少し違っている。
 それはともかく、「両社中」「鶴かめ」とあるのに拠れば、亀山社中も存在していたことになる。「亀山」は北島国造館の裏山の名である。
 佐草美清(1794年生、没年未詳。出雲大社上官で歌人。)の活動時期が明らかでなく、詳細は不明であるが、想像を逞しくすれば、鶴山社中に合わせてほぼ同じころに結ばれたのではないか。74代国造北島従孝(よしのり。1774~1838年)か、歌人としても著名な75代国造北島全孝(たけのり。1803~1886年)が国造として主宰したのであろう。
 このように狭い大社に二社中が存在したことは他に例がないであろう。安政5年(1858)には両社中が合同で歌会を催行しており(出雲市立大社図書館蔵「両社中内会兼当和歌控」)、お互いに切磋琢磨しながら研鑽を積んだ詠歌活動が偲ばれて興味深いものがある。』(前掲書、P.62~P.63)

 明治維新に際して、神道を国家神道へと変貌させ、政治的な活動を積極的に行なったのは千家尊福(たかとみ。1845~1918年。第80代国造)。千家尊孫の孫である。古来、千家・北島ともに出雲大社の神官であると同時に、出雲国造(こくそう)を名のり、神職であるより、出雲の統治者・政治家としての色彩が極めて濃厚であったということだ。
 それが明治維新で欲が出てきた。一地方の統治者から、日本全体の統治者の一角に連なろうとしたのである。
 彼らのくわだては一応成功したものの、伊勢神宮との国家の主宰神をめぐる争いに敗れ、伊勢神宮の後塵を拝することになってしまった。
 「かごめの歌」は、貴族院議員、東京府知事、埼玉県知事などを歴任して世俗的に立ち回り、日本の政治の中枢に躍り出た千家尊福宮司の俗物性を揶揄した童謡(わざうた)であると言えようか。

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 ここで一句。

“これがまあ原発技術か汚染水” -草加、こはく

(毎日新聞、平成25年6月6日付、仲畑流万能川柳より)

(“これがまあ終(つい)の住処(すみか)か道の奥”、“国栄えて山河なし”)

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