孤高な碩学からの贈りもの 1

 昨年の暮に、一冊の本が届きました。北野弘久著、『税法学原論』-第六版(青林書院)です。日本における税法学の教科書として名高いこの本は、1984年の初版以来版を重ね、2007年12月20日付で第六版。著者自ら、贈って下さったものです。

 会計事務所を経営していく上で、北野先生の『税法学原論』-初版は、私の座右の書であり、バイブルでした。税務署を相手にしてドンパチをやるときにはその都度目を通し、どれだけ勇気づけられたか分かりません。

このたびの第六版は、文字通り私にとっては記念すべきものとなっていました。私の冤罪事件(「冤罪を創る人々」で詳述しています)を明確な形で取り上げて下さっているからです。第六版の序文で、

“引当金の戻し益の益金不算入および貸倒損の当否が逋脱犯を構成するとした山根治税理士事件は冤罪であること、-(中略)-について詳細な注記を行った。”(“第六版に寄せて”ⅲ)

とされ、本文においては、

“引当金の益金戻し入れを不注意により看過したことや債権を「回収不能」として認定し貸倒損として処理したことが下級審裁判所で、前出1973年の最高裁判決の「ことさらに過少に記載した内容虚偽の納税申告行為」に該当するとして有罪とされた事案がある。右益金不算入や貸倒損の処理の事実は納税義務者の帳簿書類、課税庁に提出された納税申告書、および納税申告書と一体となる財務諸表(法人税法74条2項参照)のうえで、明白である。そこには隠蔽された事実は少しも存在しない。加えて、貸倒損の問題については、当該貸付債権が回収不能であるかどうかは、ケースバイケースによって判断すべきであって、それは結局は価値判断の問題である。財務会計の実務においても具体的な判断基準が示されているわけではない。税法においても具体的認定基準が法律で規定されているわけではない。…それゆえ、「ことさらに過少に記載した内容虚偽の納税申告行為」なるものは存在しない。つまり、右事案には構成要件該当性が存在しないわけである。また、行為者側にも構成要件事実への認識(故意)も存在しない。逋脱犯は成立しないことになろう。”(前掲書、P.525~P.526)

と、分かり易い明解な言葉と論理構成によって無罪論を展開して下さいました。
 更には、この記述の注記として、

“課税庁は、引当金の益金不算入については、ことさら調査するまでもなく税務行政の実務において修正申告等の行政指導をすれば済む問題である。また、貸倒損の判断については見解が異なるのであれば、更正処分をするだけで済む問題である。”(前掲書、P.526)

と説明が付されています。これは私達実務に携わる者としてはごく当然の扱いなのですが、このとき立件した検察官だけでなく、判決を下した裁判官も全くの無知であったことが、法理論だけでなく、税務の実際にも通暁されている、税法学の権威によって明らかにされたのです。
 注記は、これに加えて引き続き、

“この引当金・貸倒損問題が争われた事例として山根治税理士事件がある。裁判所は同税理士を有罪としたが、同事件には犯罪構成要件該当性、同構成要件事実への認識(故意)も存在しないし、1973年の最高裁判決「ことさらに過少に記載した内容虚偽の納税申告行為」の事実も不存在で、学問的には冤罪である。”(前掲書、P.526)

と、はっきり冤罪と断定して下さいました。
 一人の職業会計人として、北野弘久博士を従来から師と仰ぎ、先生の「税法学原論」をバイブル的な存在としてきた私にとって、その最新版である第六版において、私の無実を宣言していただいたことは、感激であり、何よりも光栄なことでした。
 尚、北野先生が取り上げて下さった冤罪は、私の事件の中の本件部分ではなく別件部分についてです。本件部分は、検察と一体になっている感のある裁判官でさえも有罪にはできなかったほどのヒドイ「デッチ上げ」で、私が「冤罪を創る人々」で主なテーマとしたものです。
 付録のようにくっつけられた、別件の有罪が確定したことによって、3年間資格(公認会計士、税理士)が抹消された訳で、その有罪確定について北野先生は冤罪であったと公言して下さったのです。

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 ほどなく傘寿(さんじゅ、80歳のこと)をお迎えになる師の、瑞瑞(みずみずし)さをイメージして一首。

“石(いは)ばしる 垂水(たるみ)の上の さ蕨(わらび)の 萌え出づる 春になりにけるかも”

 

-志貴皇子(しきのみこ)の懽(よろこび)の御歌(みうた)。万葉集、1418番。

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