冤罪を創る人々vol.108

2006年04月11日 第108号 発行部数:600部

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 「冤罪を創る人々」-国家暴力の現場から-
  http://consul.mz-style.com/catid/11

  日本一の脱税事件で逮捕起訴された公認会計士の闘いの実録。
  マルサと検察が行なった捏造の実態を明らかにする。
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 山根治(やまね・おさむ)  昭和17年(1942年)7月 生まれ
 株式会社フォレスト・コンサルタンツ 主任コンサルタント
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●「引かれ者の小唄」 ― 勾留の日々とその後
http://consul.mz-style.com/catid/41

「松尾芭蕉と夢紀行 -その4」より続く
http://consul.mz-style.com/item/503

・ 松尾芭蕉と夢紀行 -その5

  私はこれまで、主に岩波文庫本によって「おくのほそ道」に親し
 んできた。跋文の末尾に「元禄七年初夏 素竜書」とある、いわゆ
 る素竜清書本を底本としたものだ。
  これは、能書家である柏木素竜が芭蕉の依頼を受けて浄書したも
 ので、芭蕉自身、その後の旅行中にも携行していたといわれている。
 芭蕉自筆草稿が世に現われるまでは、最も信頼すべき原本とされて
 きたものである。

  書写を終えてから、改めて芭蕉自筆本と素竜清書本を底本とした
 岩波文庫本とを比較してみた。
  すると驚いたことに、あちこちでかなり異なっていることが判明
 した。一つや二つではない。清書する際に素竜がかなり自由に振舞っ
 ているのである。芭蕉がひらがなで記しているのを漢字に直してみ
 たり、芭蕉が用いている漢字を変えてみたりと自由奔放である。

  たとえば、岩波文庫本では、

“行春(ゆくはる)や鳥啼魚(とりなきうを)の目は泪(なみだ)”

 の句の前に、

“前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻(まぼろし)のちまたに離
 別の泪(なみだ)をそそぐ。”

 とあり、泪という字が立て続けに用いられている。
  ところが、自筆本では、俳句では泪の字が用いられているものの、
 地の文では涙の字となっており、明らかに区別されている。日本語
 では、「てにをは」にせよ漢字にせよ、同じ調子を避けるのがよい
 とされており、並はずれて文章にうるさかった芭蕉が、わざわざ泪
 と涙とを書き分けているのである。
  あるいは、草加の段で、餞(はなむけ)という字が用いられてい
 るが、これも自筆本では「花むけ」とされている。餞(はなむけ)
 と花むけとでは読み方とか意味合いは同じでも、ニュアンスが随分
 違うのではないか。
  尚、同じ草加の段で、「路次(ろし)の煩(わづらひ)」という
 フレーズが見えるが、自筆本では、「路頭(ろとう)の煩」となっ
 ている。「次」が「頭」と変っているのである。もっともこれは、
 素竜が書き換えたのではなく、次と頭の草書体がよく似ているとこ
 ろから、岩波文庫本の校注者が読み違えただけのことかもしれない。
  このような違いが、漢字だけでなく、てにをはとか漢字の読み方
 にも多く見受けられる。

  中でも気になったのが次の2つの句である。

   “あらたうと青葉若葉の日の光”

(自筆本では「あなたふと」なっており、“あら”と“あな”では全
 く違った俳句になってしまう。)

   “蚤虱(のみしらみ)馬の尿(しと)する枕もと”

(自筆本では「尿」の字に芭蕉自らバリと振り仮名をつけている。従
 来、尿をシトと読み慣わしてきたのは、この句の少し前に、「尿前
 の関」という固有名詞があり、尿前をシトマエと呼んでいたことに
 加え、バリと読むと品が落ちるのではないかと考えたからのようで
 ある。これも校注者の判断であり、素竜の責任ではない。
  しかし、改めて、

   “蚤虱馬の尿(バリ)する枕もと”

 と詠んでみると、風狂の俳人に似つかわしい句であることが分かる。)

  岩波文庫本は芭蕉自筆本と較べてみると相当以上に多くの違いが
 見受けられるものの、底本となった素竜清書本は、芭蕉が自ら手許
 におき、部分的に手を加えて直したりしているのであるから、それ
 なりの意味を持っている。決して排斥すべきものではない。
  ただ、私にとっては、かなりの時間をかけて書写した自筆本であ
 るだけに、自筆本に愛着が湧いている。芭蕉独特の書きぐせの文字
 が躍動し、随所に紙のキリハリがなされ、生々しい推敲の跡を残し
 ている自筆本は、日本語の達人であった天才が残した制作のプロセ
 スを辿ることのできる、またとないものである。

  ゆったりとくつろいで座ることを、わが愛する出雲弁では「ねま
 る」という。元禄時代の東国にも同じ言葉があったようである。芭
 蕉が東国の地を旅し、「ねまる」という土地の言葉に感興を受けた
 のであろうか、俳聖は、心暖まるもてなしを受けた感謝の思いを、
 「ねまる」という方言に託して一句の中に封じ込めた。名句である。

   “涼しさを我宿(わがやど)にしてねまる也”

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●山根治blog (※山根治が日々考えること)
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「疑惑のフジテレビ -11」より続く
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・ 疑惑のフジテレビ -12

  日枝久氏をはじめフジテレビの経営陣は、ライブドアが粉飾決算
 をしていた事実、しかも上場廃止に結びつくほど重大な粉飾決算を
 していた事実について、昨年のデューデリを終えた時点では、十二
 分に知りうる立場にあったと思われます。

  これまで述べてきたことをまとめる形でその理由を列挙してみま
 すと、

(1) ライブドアの上場以来の決算書は、会計のプロが作成したも
 のではなく、初歩的な誤りがいたるところに見受けられる、極めて
 オソマツなものであったこと。上場直後の第5期(平成12年9月
 期)こそ連結、単体ともに赤字を計上していますが、その後の第6
 期~第9期については全て利益がプラスとして計上されています。
 しかし、その実態は、各期とも赤字であることが推測され、ツジツ
 マ合わせの決算がデッチ上げられています。決算のやり方が余りに
 も稚拙なものであるため、外部からインチキが透けて見えるのです。
 まるで見てくれと言わんばかりに、いたるところに粉飾の足跡が残
 されているのです。ドジな犯人が、犯行現場のあちこちに、指紋を
 残したり、足跡を残したりしているようなものです。

(2) 全社挙げての工作ではなく、会社のごく一部の人が粉飾にか
 かわっていると思われること。ライブドアの場合は、企業会計に無
 知な人物がいわばゲーム感覚で毎期の決算書を作成していたようで
 す。熟練の経理マンが会社の命運をかけて全社的な規模で粉飾決算
 を敢行する場合、会計監査人が粉飾に気付くのは容易なことではな
 く、ましてや、有報を外部から分析しただけではとても分かるもの
 ではありません。

(3) フジテレビは、5月23日に契約をするまでに、昨年の2月
 以降、3ヶ月もの期間があり、会社としてライブドアの調査が十分
 にできたことに加え、直前の一ヶ月間は、外部の専門家によるデュー
 デリまでしていること。ことに、デューデリは単なる外部調査では
 なく、当事者間の契約に基づくものですから、経営責任者に直接質
 問ができ、重要な経営資料の提示を求めることができます。子供だ
 ましのようなインチキ決算書に気付かないはずがありません。

(4) (1)~(3)を総合的に考えて、決算書のゴマカシは、有
 報の単なる訂正報告書で済むレベルではなく、上場基準に抵触する
 ほど重大な粉飾がなされていることが分からないことは極めて不自
 然であること。

  このように、ライブドアの決算書のゴマカシの疑いは、このたび
 の検察が立件したように、単に第9期だけの問題ではなく、上場以
 来の全ての決算期(第5期~第9期)に及ぶものです。
  元首相の橋本龍太郎さんが、日歯連から一億円の政治献金を受け
 取ったかどうかについて、「憶えていない」を連発したことを想い
 出します。このような見え透いた言い逃れは、誰かの顔色をうかが
 い、本来の使命をどこかに置き忘れている現在の検察当局には通用
 するかもしれませんが、大多数の国民に通用するものではありませ
 ん。
  これと同様に、日枝さんをトップにいだくフジテレビが、ライブ
 ドア事件の被害者を装い、「だまされた。あんな会社だとは思わな
 かった」という、白々しい言い逃れをすることがどこまで通用するの
 でしょうか。
 ―― ―― ―― ―― ――

 ここで一句。

  “記憶力失せたポマードただの人” -枚方、ただの人。
        (毎日新聞:平成17年12月8日号より)

(テカテカとした頭の外側には認知症が及んでいないようで。)

(「疑惑のフジテレビ -号外7」はWebサイトにて)
http://consul.mz-style.com/item/512

 

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