145 松尾芭蕉と夢紀行 -その2

****2)その2

奥の細道の芭蕉自筆本は、かねてからその存在が伝えられていた。野坡(やば)本と言われていたものである。その野坡本がひょっこり出てきた。

長い間、杳(よう)として行方の知れなかったものが出現したのである。しかも時を移さず、解説付きで影印本が刊行され、誰でも容易に手にすることができるようになった。書写には格好のものだ。

思い立ったが吉日とばかりに、拘置所で使っていたコクヨのCampusノートを用いて書写を始めた。書き始めた11月25日は、全く偶然にも、9年前に発見のニュースが各新聞で公表された前の日、つまりテレビ各局が夜のニュースで自筆本発見の第一報を流した日であった。書写を始めてからしばらくして、この符合に気付き、何か見えないものが私を衝き動かしている錯覚に陥ったほどである。

ノートの表紙に、「松尾芭蕉と夢紀行」と記し、ノートを縦書きに使い、筆ならぬペンを用いて書写を進めた。

“月日は百代(はくたい)の過客(くゎかく)にして、行かふ年も又旅人也”

高校時代からなじんできた冒頭の一節だ。ところが「月日」と書き出して、三字目の「は」が何と書いてあるのか分らない。はじめのところで行き詰ってしまったのである。
考えてみたら、一年間若い学生諸君と一緒に机を並べて教わってきたのは、主に「御家流(おいえりゅう)」と称する流麗な書体であった。青蓮院流に端を発する書法の一つで、江戸時代に大衆化し、実用書体となったものだ。江戸時代の公文書に主に用いられたものである。
授業では、漢字独特の崩し方を習得することに主眼が置かれており、仮名については標準的なものに限られ、多くを学ばなかった。仮名の習得は後回しにされており、書写を思いついたときに、易しいはずの仮名が読める状態にはなっていなかったのである。

そこで、「は」の文字の解読である。こうなったら外国語を読んでいくのと同じだ。古文書辞典とか参考書を、あれこれひっくり返してやっと判明した。
「は」は、盤の崩し字であった。変体仮名に習熟している人からみれば、何を馬鹿なことをやっているんだ、と呆れ顔されるかもしれない。しかしこれが私のやり方だから仕方がない。効率的でないことは明らかであるが、このような泥くさい作業を経ないと、それほどできのよくない私の頭にストンと入ってこないのだ。泥縄式である。

このようにして、「の」、「む」、「空」、など判読しがたい字を辞書で調べまくっているうちに、書写の一日が終った。影印本の2ページを書き写すのがやっとであった。
次の日からはやり方を変えて、たとえどのような字であるのか分らなくとも、ともかく芭蕉の筆のままに忠実にたどっていくことにした。もちろん、芭蕉の書き癖も含めてである。
すると不思議なことに、それほど辞書で調べなくとも分るようになってきた。当然、書写のスピードは速まった。

書写を終えたのは、11月30日のことであった。書き写すのに6日かかったことになる。この6日の間、まるで生きているかのような芭蕉本人に出会い、彼と共に素適な夢紀行をすることができた。それは、この上なく豊かで、贅沢な旅であった。

 

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