投資ジャーナル事件の真相 -2
- 2006.01.10
- 山根治blog
私は事件が起った直後に、地元の新聞社が発行している「山陰経済ウイークリー」という雑誌に中江滋樹氏についての一文を寄せたことがあります。当時、「明窓閑話」と題してその時々の思いを綴っていたのです。以下、同誌の昭和59年9月11日号から転載いたします。「明窓閑話」181回目の記事です。
***「負ければ賊軍」
投資ジャーナル、甘い儲け話にワナ、十倍融資、悪のカラクリ、詐欺商法に奢った中江滋樹の宴のあと、舌先三寸で数百億-証取法違反容疑で摘発された投資ジャーナル社と中江滋樹会長とに対するマスコミの悪口雑言はすさまじいばかりであり、連日のようにテレビ、新聞、週刊誌が、これでもかとばかりにとりあげている。
中江滋樹(なかえしげき)、三十歳、滋賀県近江八幡市に生まれる。
中江氏との出会いは今から八年前にさかのぼる。
昭和五十一年七月、私がお世話になった会計事務所に辞表を提出した一ヵ月後のことだ。
京都のある中華料理店の一室、氏は初対面の私に二つの強烈な印象を残した。
一つは、氏の当面の目標は証券会社を手に入れること、と切り出した私へのアプローチの強さであり、今一つは失礼な態度をとったために私が一喝したことに対する機敏な態度の変化である。
氏が一メートルほどパッと退き、額を畳の上にこすりつけて、私に許しをこうた姿は今も記憶に新しい。
中江滋樹氏二十二歳、私三十四歳のときのことであり、それ以来、私は中江滋樹氏の顧問であり、氏が摘発を受けた現在も顧問であることに変わりはない。
かつて、北浜の若獅子と称賛した朝日新聞は、手の平をかえすように同じペンでもって中江氏に非難の矢をあびせかけた。他のマスコミも大同小異である。
頭の回転の速さ、抜群の記憶力、アイデアの斬新さ等、類い稀な頭脳の持ち主である中江氏は、カリスマ性をも十分に持ち合わせており、人をひきつけてやまない。
中江氏は生来の勝負師である。それが、たまたま株のダイナミックな世界に魅せられ、深くたずさわっていくにつれて相場師と目されるまでになった。
氏のことを、詐欺師と口ぎたなくののしっているマスコミの記者諸氏のうち、一体何人が氏と直接話をしたことがあるだろうか。元幹部の証言とやらが週刊誌に出ているが、本当に幹部の証言なのであろうか、疑わしい限りである。
株の世界はロマンであると同時に、極めて厳しい非情の世界でもある。
勝つか負けるか、この一点に賭けて相場師は全精力を傾注する。
勝てば風雲児、若獅子ともてはやされ、負ければペテン師とののしられる。ただそれだけのことだ。
氏がいいかげんなことを言って投資家をだまし、金をまきあげたとか言われているようであるが、かりそめにも株をやろうという人が、そんなことで欺されるだろうか。また、特定の銘柄の株価を勝手に操作して、人をその気にさせて金を引きだしたとも言われているようであるが、株がそんなに簡単に操作できるものであろうか。ただ、二部上場の株とか、店頭銘柄など超品薄株はわずかな買いで値が飛ぶことは事実であるが、そんなことをして値を飛ばしても売り抜けることは難しい。そのために、自ら傷を負うことなく株価を操作することは不可能に近い。
ただ一つの例外は、証券会社による操作である。ひそかに安く仕込んでおいて、一般投資家に売り逃げる。大手証券の常套手段である。とくに大手N証券のやり口は、中江氏などの比ではない。
勝負の世界は、善悪の判断になじまないのではないか。被害者とかいって大さわぎしている連中は、要するに一獲千金をねらい、それが自分の思い通りにいかなかっただけのことではないか。
資金の運用は、一つの例外もなく、いかなる場合にも自らの責任と判断ですべきであり、リスクと成果とは常に反比例するものであることを肝に銘じなければならない。
勝てば官軍、負ければ賊軍、中江氏は一つの勝負に敗れたものの、全ての勝負に負けたわけではない。
生まれつきの勝負師である氏は、命の尽きるまで挑戦を続けるであろうし、私もまた命の尽きるまで氏とのつきあいを続けるであろう。
―― ―― ―― ―― ――
ここで一句。
(岡崎氏の自評に曰く「丸投げ?」。私のまわりにも“金の亡者”が何人かいますが、“夢起”という別名を持っていた天性の相場師は、金の亡者とはほど遠い人物でした。お金は夢を実現する手段であると同時に、時として夢を破壊する魔物にもなるようです。)
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