投資ジャーナル事件の真相 -1

今から21年前の1984年8月23日、投資顧問業の企業グループが警視庁の摘発を受けて、あっけなく倒産してしまいました。相場師中江滋樹氏が経営する投資ジャーナル社をはじめとする14社に及ぶ企業グループでした。

時のマスコミはガサ入れの半年程前から中江氏個人と投資ジャーナル社のバッシングを始め、ミソもクソも一緒にしてあることないことを喧伝し、中江氏を稀代の詐欺師に仕立てあげていきました。

倒産の引き金になった警視庁の摘発は、証券取引法違反によるものでしたが、この摘発自体、違法性の高いのものであったと言われています。その後の取調べによって証券取引法違反には該当しないことが判明し、当局としては立件することができなかったからです。
翌1985年の6月19日、中江氏は警視庁に逮捕されます。結局中江氏は多くの被害者を出したとして詐欺罪に問われ、懲役6年の実刑が宣告されました。

これが世にいう「投資ジャーナル事件」のあらましです。10年ひと昔といいますが、20年もたちますと事件はすっかり風化してしまい、世間からはほとんど忘れられてしまった感があります。
「あの人は今」といった形で年に1~2回思い出したようにとりあげられたり、あるいは他の経済事件の記事の中でわずかに言及される位のものになっています。

しかし、私には中江氏と「投資ジャーナル事件」は、忘れようにも忘れることができない存在でした。風化するどころか、年を追うにつれて私の中でますます大きくふくらんでいったのです。
「投資ジャーナル事件」とは何であったのか、中江滋樹という人物は一体何者であったのか、詐欺師のレッテルが貼られているものの、本当のところはどうなのか、 ―
私の疑問は釈然としないままに揺れ動き、この20年の間私を悩まし続けてきました。

中江滋樹氏と出会ったのは30年程前のことで、私が34歳、中江氏は私より一回り若い22歳の時でした。
中江氏は株式会社投資コンサルタントツーバイツーという会社を設立したばかりであり、私は、当時の勤務先である監査法人があった京都で、郷里での会計事務所開設の準備をしていました。中江氏から税務顧問の依頼を受けましたので、中江氏の会社が山根会計事務所の第一号の顧問先となったのです。

仕手筋をはじめ株がらみで仕事をしている人の多くが、脱税の嫌疑をかけられてつぶされている現実を知悉していた中江氏は、こと税務に関しては神経質ともいえるくらいの注意を払っていました。
会社の規模が大きくなるにつれて、中江氏の懸念は現実のものとなり、国税による税務調査が頻繁に繰り返されるようになったのですが、全てクリアーすることができました。専門家としての私の指示をキチンと守っていたために、税務当局から不当ないいがかりをつけられることがなかったからです。

中江氏とは税務のことだけではなく、さまざまなことがらについて話し合いました。しかるべき礼を尽し、約束を守る人物であったというのが私のいつわらざる印象です。
中江氏に限らず、彼のまわりにいた人で私が親しくお付き合いをした人は、わずかの例外を除きますと、立派な方々ばかりでした。奥さんのK子さん、有能な経理担当であったT.Jさん、投資ジャーナル社のK.F社長、同社のT.K総務部長、M営業部長、東京クレジット社のS社長、いずれの方も私の中に悪い印象がまったく残っていないのです。
それなのに何故、中江氏をはじめこの人達が詐欺師グループとして世間から糾弾され、司法においても詐欺罪として断罪されなければならなかったのか、私にはどうしても納得することができなかったのです。

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ここで一句。

“情を捨て妻捨て子捨て友を捨つ いずれ支持者も拉致被害者も” -大阪府池田市、医師岡崎欣一、77歳。

 

(朝日新聞:平成17年12月6日号“声”欄より)

(小泉純一郎さんと慶応大学の同級生であった栗本慎一郎さんが、ある週刊誌で小泉さんを評して、非情ならぬ欠情の人と言っています。人としての情を欠いていたり知能レベルに問題があるとして、“パンツをはいたサル”とまで酷評しているのには驚いてしまいました。
栗本さんの小泉評の当否はともかくとして、相場師中江滋樹氏に関していえば、非情とか欠情どころか、逆に多情とでもいえる人物であったと言えるようです。)

 

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