司馬遼太郎と空海 -その5
- 2004.07.20
- メールマガジン
空海は、承知2年(西暦835年)に62才で死にました。この死の事実をめぐって、作家は「空海の風景」の中で次のように述べています。-
”しかし死んだのではなく入定(にゅうじょう)したのだという事実もしくは思想が、高野山にはある。この事実は千余年このかた継承されてきて、こんにちもなお高野山の奥之院の廟所の下の石室において定(じょう)にあることを続け、黙然と座っていると信ぜられているし、少なくとも表面立ってこれを否定する空気は、二十世紀になっても高野山にはない。”
今でも、維那(いな)と呼ばれている僧侶が、黄衣(こうい)をまとって、廟所にいる空海の衣を更えたり、朝夕二度の食事の膳を勧めたりしているそうです。私のように宗教的には中立的な立場にいるものには、とうてい理解の及ばないところなのですが、ただ、強烈な信仰の存在には身の引き締まる思いがします。
司馬さんもこの入定説(空海は死んだのではなく、即身成仏として生きたまま現在も存在しているとする考え)に疑問を投げかけ、物理的には否定していますが、千年以上も続いた即身成仏信仰自体を否定しているのではありません。作家の信仰一般に対する真摯な思いと敬虔な祈りとが背景にあるのでしょう。あるいは、それ以上に一人の天才としての空海に対する作家の熱い思いがあるからでしょうか。
空海は死に、火葬された、-これが作家の結論です。
作家がその根拠とする大きなものは、古代日本の正史の一つである「続日本後記」の記述です。
空海の死に関しては、かなりのスペースが割かれており、時の朝廷がいかに空海を処遇していたのかが分かります。作家は、簡潔な記事であると言っていますが、日本書記をはじめとしたいわゆる六国史の中の死亡記事としてはむしろ長文に属するものです。
その中の淳和(じゅんな)上皇の弔詞に曰く、-”嗟呼(ああ)、哀しいかな、禅関僻在(へきざい)にして、凶聞(きょうもん)晩(おそ)く伝はり、使者奔赴(ほんぷ)して荼毘(だび)を相(あひ)助くることあたはず。これを言ひて恨(うら)みとなせども、悵恨(ぢゃうこん)いづくんぞやみなん。旧窟(きうくつ)を思ひ忖(はか)るに、悲涼(ひりょう)、料(はか)るべけんや。”
(ああ、哀しいかな。瞑想の修業道場(である高野山)が僻地(へきち)なので、(京には)訃報(ふほう)が遅れて伝わった。弔問(ちょうもん)の使者は、心せわしくかけつけたが、師の荼毘を助けることもできなかった。こういって恨んでみても、悼(いた)み恨むことは、どうして消えることがあろうか。昔の座禅をしていた庵(いおり)に思いをはせるにつけても、悲しみに沈むのは深くはかりしれない。) -漢文の読み下しと現代語訳は、「弘法大師空海全集第八巻-筑摩書房刊」によっています。
正史が上皇の弔文(公文書である院宣)を掲載し、そこに「荼毘」(火葬)と明記されていることに加えて、火葬の習慣は、仏教徒のあいだで広く行なわれており、空海が、密教は仏教の発達形態であるとしている以上、仏教の思想と作法に逆らってまで非火葬の方式に固執したとは考えられないこと、この2つの根拠によって、作家は、入定説を明確に否定しているのです。
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