司馬遼太郎と空海 -その3
- 2004.07.06
- 山根治blog
「空海の風景」における主人公空海は、日本の古代にたくましく生きた一人の人間として描かれています。後世付加された3000にも及ぶ数多くの空海伝説はことごとく捨象され、できる限り当時の資料にもとづいて、作家の人間空海像が浮かび上がるようになっています。
空海を弘法大師として讃仰し、即身成仏として礼拝の対象としている人々からすれば目をむくような叙述がなされていますので、いくつか取り上げてみます。
まず作家は、作品の冒頭から、空海の出自について異議を唱え、ズバリと切り込んでいきます。
空海は承和2年(西暦835年)3月21日に、62才を一期として高野山で入定するのですが、その6日前の3月15日に、弟子達を集め遺告しています。このときの遺談をもとにしたのが「御遺告(ごゆいごう)」であり、空海関連資料の中では第一級のものとされているものです。
「御遺告」の縁起第一に、”吾が父は佐伯(さへき)の氏。讃岐の国多度の郡(たどのこほり)の人なり。昔、敵毛(てきばう。東北地方の未統治のもの。えみし)を征して班土(はんど)を被(かうむ)れり。”
(わたくしの父は、佐伯氏の出身で、讃岐の国多度の郡の人であった。むかし、東国の毛人(えみし。蝦夷)征伐に功があって領地を得た。) とあり、古代名門豪族の大伴氏の一派に連なる佐伯氏の華やかな家系が空海自らの口から遺談として伝えられています。
しかし、と作家は異を唱えます。作家は、佐伯氏には二つあって、中央にいる佐伯氏は、確かに名門大伴氏の一派であり、東国の毛人を征したかもしれないが、讃岐の佐伯氏は違うというのです。
作家は、讃岐の佐伯氏は、毛人を「征し」どころか、毛人そのものであると言っています。つまり、空海は毛人(蝦夷)の末裔であるというのです。たいへんな違いですね。
根拠として、作家は日本書記(景行紀51年条)を挙げます。つまり、景行天皇の皇子ヤマトタケルは、東国の毛人を征し、多数の毛人を捕虜にして畿内に戻ってきます。この捕虜たちはひとまず伊勢神宮におかれるのですが、”神宮に献れる蝦夷等、昼夜喧譁(なりとよ)きて、出入礼無(でいりゐやな)し。”
(神宮に献上された蝦夷たちは、昼といわず夜といわず大騒ぎし、傍若無人のふるまいをした。)
このために、伊勢神宮を預かっているヤマトヒメが音をあげて、朝廷(みかど)に進上することにして、厄介払いしてしまいます。
そこでこの捕虜たちは、三輪山のふもとに居住させられるのですが、ここでも”未(いま)だ幾時(いくばくのとき)を経ずして、悉(ふつく)に神山(かみのやま)の樹を伐りて、隣里(さと)に叫呼(さけびよば)ひて、人民(おほみたから)を脅(おびやか)す。”
(ほどなく、神の山である三輪山の木をかたっぱしから切り、近くの民家に繰り出しては大声で騒ぎたて、人々を恐怖におとし入れた。)
景行天皇は困ってしまいます。そこで、
”其(か)の、神山(かみのやま)の傍(ほとり)に置(はべ)らしむる蝦夷(えみし)は、これもとより獣(あや)しき心ありて、中国(なかつくに)に住ましめ難し。故(かれ)、その情(こころ)の願ひの随(まにま)に、邦畿之外(とつくに)に班(はべ)らしめよ。”
(あの三輪の麓に住まわせることにした蝦夷は、元来よこしまな心を持っている者達であって、畿内に住まわせることはできない。よって、その心の願いにまかせて、畿外に住まわせよ。)
このような詔(みことのり)が発せられ、畿外の五カ国、つまり、播磨、讃岐、伊予、安芸、阿波に分住させられたのです。タライ回しになったんですね。ヤマトヒメや景行天皇がどんなシブイ顔をしたのだろうかと考えると楽しくなってきます。
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