大塚家具の親子ゲンカ-⑨

 本来は簿記会計上の概念である資本が、会社法の成立と同時に法律の上で実体らしきものに変貌した。ユーレイが現実社会で大手を振って動き出したのである。これまで述べてきたところだ。

 ところがこの資本というユーレイは、経済学の分野では以前から実体があるかのような扱われ方をしている。もっとも分かり易い例はカール・マルクスの経済学だ。俗に「マルクス経済学」と言われているものである。

 マルクスは『資本論』第1巻の大半を費して、商品(Ware)、貨幣(Geld)、資本(Kapital)について哲学の装いを凝らした論理を展開し、自らの経済学の基礎としている。

『資本論』の第2巻以降は、マルクスの遺稿をもとにエンゲルスが書き上げたものとされているが、それらを読む限りマルクスが資本(Kapital)という場合、簿記会計上の資本が念頭にあったことが判る。

 マルクスが住んでいたのは19世紀後半のイギリスのロンドンだ。当時イギリスは産業革命の真っ直中。そのイギリス経済の実態を把握しようとしてマルクスは各種の統計データ、経済資料を収集し分析している。なかでも重視しているのが会社とか組合の決算書だ。そこでマルクスが出会ったのが「資本」という簿記会計の勘定科目だ。

 『資本論』の中には5回ほど簿記(Buch-haltung)に触れたところがある。マルクス(あるいはエンゲルス)が簿記に言及しているところを子細に検討してみると、二人ともおよそ簿記会計の基本を知らない人物であったことが判明する。現在の日本における経済学者、弁護士、検事、裁判官のほとんどが簿記会計のイロハを知らない、即ち決算書が読めないのと同様だ。

マルクスはあるいはこのように考えていたのではないか。

「貸借対照表の借方(左側)にある現金(Geld)が、資本(Kapital)と名称を変えていつの間にか貸借対照表の貸方(右側)にきている。しかも毎年の利益(剰余金)が資本に加えられていって資本は年々増大していく。
 この年々増大の一途を辿る資本というものは一体何ものだ。この正体を暴いてやろうではないか。」

 簿記会計上の資本というのは、貸借対照表の借方にある資産の合計額と貸方にある負債の合計額との差額にすぎないものであって、もともと実体などないものだ。空虚と言い換えてもいいかもしれない。
 実体がないものにその正体などあるはずがない。仮にマルクスが上のようなことを考えていたとするならば、マルクスは『資本論』の出発時点で誤っていたことになる。
 つまりマルクスは誤った設問の答を無理に引き出そうとして詭弁を弄した。用いられたのはヘーゲル流の弁証法だ。もちろん愚にもつかぬ屁理屈である。

「現金という資産(借方項目)が、質的な変化を遂げて、つまり止揚(アウフヘーベン)して資本(貸方項目)に転化する。」

 このようなテーゼを大真面目で論じているのが『資本論』だ。簿記を知っているものからすれば、何をグダグダとくだらない空論を弄んでいるのか、といったところである。
 実はこのような資本の取り扱いは、ひとりマルクスだけのものではない。ケインズ経済学、あるいは新自由主義経済学も同様だ。とりわけ、アメリカ発の新自由主義経済学は、アメリカで屁理屈がこねられて日本の信奉者(エピゴーネン)がさかんに喧伝しているまやかしの経済学だ。この経済学とその亜流である経営学は、端的に言えば、金融資本・ファンドのあくどい金儲けを正当化しようとして創り出された手前勝手な屁理屈だ。

 ここで本題の大塚家具の社長大塚久美子氏に立ちかえる。この女性、国際金融資本の教則とも言えるまやかしの経済学とその亜流であるまやかしの経営学に洗脳され、どっぷりと漬っているようだ。

(この項つづく)

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 ここで一句。

”また説教 言えずに耳に タコピアス” -柏原、柏原のミミ

(毎日新聞、平成27年4月19日付、仲畑流万能川柳より)

(グダグダに 無言の抵抗 胼胝(たこ)ピアス。)

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