「福沢諭吉の正体」-補足6-“ええじゃないか踊り”の背景(2)

 前回述べたように、“ええじゃないか踊り”は、維新のクーデターを企らむ連中が仕組んだ騒動であり、民衆のエネルギーの捌(は)け口の役割を果たすものであった。これが歴史家・樋口清之の見解である。

 たしかに、それはそれでこの特異な社会現象を解明する一つの見方ではあろう。

 しかし、この見解では、何故600万人もの民衆が伊勢神宮をめざして狂ったように押しかけたのか、今一つすっきりしないものがある。

 そこで私の仮説である。
 まず、始めに天からお札(ふだ)が降ってきたというのであるが、そのお札は伊雑宮(いざわのみや)のお札であることだ。
 伊雑宮は、志摩国答志郡上之郷村(現在の三重県磯部町)にある伊勢神宮の別宮である。
 この伊雑宮、私にとっては忘れることのできない神社名だ。
 今から30年ほど前、私が40歳前後のことである。東京で慶應義塾大学出身の僧侶と出会った。彼に勧められて購入した稀覯本(きこうぼん)が『先代旧事本紀大成経』72巻本であるが、この72巻本が発見されたとされる場所が、他ならぬ伊雑宮の神庫(保玖羅ほくら)であるからだ。この『先代旧事本紀大成経』には、伊雑宮のほうが伊勢内宮より古くからアマテラス大神を祀っていたことが記されており、このことが伊勢神宮の反発を招き、やがては江戸幕府によって偽書のレッテルを貼られ、伊雑宮の秘蔵書として出版した関係者が流刑に処せられるといった受難の歴史があるからだ。

 樋口清之によれば、この伊雑宮のお札(ふだ)を密かに刷っていたのは、京都の吉田家であったという。吉田家から、お札の版木が発見されたことから判明したというのである。
 京都の吉田家といえば、吉田神道(あるいは卜部(うらべ)神道)の本拠地である吉田神社と関連があるのではないか。
 この「吉田神道」(よしだしんとう)、広辞苑によれば、

『神道の一派。室町後期に京都吉田神社の祠官吉田兼倶(かねとも)が唱道、仏教・儒教・道教などを融合し、わが国固有の惟神(かんながら)の道を主張する。天照大神(あまてらすおおみかみ)・天児屋根命(あまのこやねのみこと)から直伝・相承した絶対的本質的な神道の意から、唯一宗源神道・唯一神道・元本宗源神道などともいう。卜部(うらべ)神道。』

とある。
 「吉田神社」についても同様に広辞苑を引いてみると、

『京都市吉田神楽岡町にある元官幣中社。奈良の春日神社を藤原氏が勧請したもの。吉田神道の本拠地となり、大元宮が設けられた。二十二社の一。』

とあるが、ここで説明されている「二十二社」が何のことか私には分らない。
 そこで再び広辞苑にあたってみると、

『二十二社(にじゅうにしゃ)。大小神社の首班に列し、国家の重大事、天変地異に奉幣使を立てた神社。1039年(長暦3)後朱雀天皇の制定。伊勢・石清水・賀茂・松尾・平野・稲荷・春日・大原野・大神(おおみわ)・石上(いそのかみ)・大和(おおやまと)・広瀬・竜田・住吉・日吉(ひえ)・梅宮・吉田・広田・祇園・北野・丹生・貴船の各社。』

とあり、確かに吉田神社が二十二社の中に入っている。

 今一つ注目すべきことがある。
 それは、江戸時代に盛んになった伊勢参りは、もっぱら伊勢外宮に祀られている豊受大神(とようけのおおかみ)にお参りするものであったことだ。この豊受大神、鎌倉時代に、天皇家と共に衰退した伊勢神宮を建て直すために、外宮の禰宜(ねぎ)渡会(わたらい)氏が創り上げた独自の神道説にもとづく大神、即ち、作物をはじめ万物を支配する最高神と喧伝された大神である。
 もともと伊勢内宮には、天皇家の祖霊である天照大神が祀られており、古代においては天皇家以外は貴族であっても参拝することができないものであった。もちろん一般大衆(百姓)などは立入禁止である。
 時代が下るにつれて一般の人々でも参拝できるようにはなったが、しかし、一般大衆は、五穀豊穣、家内安全、良縁祈願などの身近な現世利益を求めて、専ら伊勢外宮(豊受大神)を目指した。
 このような状況のもとで、敢えて伊雑宮(天照大神)のお札がバラまかれたのである。従って、伊勢神宮の主祭神は外宮の豊受大神ではなく、内宮の天照大神であることを一般の人々に印象づけるためになされた工作であったとみることができる。

 以上をふまえると、次のようなことが言えるのではないか。
 徳川家から政権を奪取しようと考えた一部の連中が、政権奪取のために天皇を利用しようと考えた。その準備工作が、天皇家の祖神を祀る伊勢内宮をクローズアップすることであり、それがこの狂乱騒ぎであった。いわば一般大衆をマインド・コントロールしようとしたということではないか。

 まず、お札を刷ったのが吉田家。これが吉田神道と関連があるとすれば、この吉田神道をもとにして明治維新政府が日本国家を統治するための国家神道をデッチ上げたことが思い起される。
 つまり、明治維新において最も利益を得たグループの一員が吉田家であり、吉田神道であったということだ。
 この吉田神道の本拠地が吉田神社、しかも吉田神社は藤原氏が自らの氏神・天児屋根命を祀る春日神社を勧請したものとくれば、吉田神道の背後に、藤原氏の生き残りの工作が透けて見えるのである。
 藤原鎌足、不比等が天皇家と姻戚関係を結び、藤原冬嗣の時代から文字通り天皇一族と一心同体になって日本の頂点に君臨し続けた一族だ。もっとも平安時代中期、武士が台頭してくると、現実の統治権は武士に移っていったが、依然として権威として武士の上に君臨し続けた。これが江戸時代の終りまで続く。
 徳川家が支配した江戸時代は、将軍の任命が形式上、天皇によってなされるものであったので、徳川幕府は朝廷に対して表向きは敬まってはいたが、皇室の領地(禁裏御料、きんりごりょう)はきわめて少なかったうえに、幕府が制定した禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)によって、天皇と公家の政治活動はほとんどできないように規制されていた。いわば、生かさず殺さず、あるいは敬して遠ざけるといった状況であった。公家全体がショボクレていたのである。
 このような状況にあって、古代から名門の名をほしいままにしてきた藤原氏をはじめとする公家(貴族)は鬱々(うつうつ)としていたに相違ない。

 このように考えてくると、明治維新において吉田家(吉田神道)以上に利益を被(こうむ)ったのは、公家ということになる。
 実際、明治維新後、上層の公家は旧大名とともに華族に列せられ、士族(武士)、平民(農工商民)、新平民(穢多、非人)の上に君臨することになった。多くの歴史教科書で、明治維新政府は四民平等政策をとったと説明されているが、嘘である。四民平等どころか、江戸時代とは異った新たな身分制度が定められたからだ。

 以上を要するに、伊勢神宮を目指した「ええじゃないか踊り」の狂乱騒ぎは、藤原氏をはじめとする公家がシナリオをつくり、薩摩藩の侍たちを手先に使って、伊勢神宮の主祭神が豊受大神ではなく、天皇家の祖霊である天照大神であることを国民の脳裏に刷り込ませるために行った政治的な準備工作であった。
 これが私の仮説である。
尚、この狂乱騒ぎにはアヘンが利用されたのではないかと思われるフシがあるが、いまのところ確証はない。

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 ここで一句。

”檀蜜を観る視る診るで妻は見る” -佐倉、繁本千秋

 

(毎日新聞、平成27年1月5日付、仲畑流万能川柳より)

(“イケメンを妻は観る視る診るで撫でまわす”)

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