「福沢諭吉の正体」-⑮

 私が慶應義塾とその創設者である福沢諭吉に対して疑念を持つに至ったのは最近のことである。それまでは、ほとんどの人がそうであるように、慶應義塾は裕福な家庭の子弟が学ぶ立派な大学であり、その創立者・福沢諭吉は近代日本文化の礎(いしずえ)を築いた立派な人物であると信じて疑わなかった。

 福沢諭吉に対して疑念が生じたのは、彼が生煮えの簿記(Book-keeping)を日本に初めて紹介し、それまで日本に根付いていた勝れものの大福帳方式を排斥した上で、実学としての簿記を帳合の法として普及させたのを知ったからであった。この連載記事の第②で述べた通りである。

 加えて、慶應三田会の存在があった。普通の大学の同窓会とは何やら異なる集団であることが分ってきた。慶應ブランドで人を信用させて引きつけるまではいいが、ひとたび利害関係が生ずると豹変するメンバーが多いことに気がついたのである。自分たちは特別に選ばれたエリートであって、メンバー以外の者は自分達に奉仕するのが当然だと思い込んでいる節がある。倒錯したエリート意識に固ったメンバー同志で結束し、人をテキトウに利用して、その挙句、お金のためなら平気で人を裏切るのである。私がこのメンバーの被害にあったのは、一度や二度のことではない。

 20年前、私を冤罪に引きずり込んだ(『冤罪を創る人々』)のは査察官と検察官であるが、その他に陰で重要な役割を演じた三人の人物がいた。共に私が信頼して親しくしていた慶應三田会のメンバーであった。このことが判明したのは一年ほど前のことである。 

 これらの疑念をきっかけとして、これまでさほど興味のなかった福沢諭吉とは一体何者なのか調べているうちに出会ったのが、

“新たな福沢美化論を批判する”

という副題のついた、

安川寿之輔著、『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』(高文研刊)

であった。
 安川氏の緻密かつ明解な論述は、十分に納得できるものであったので、早速ネットで福沢諭吉全集全21巻(岩波書店)を買い求め、ザッと目を通してみた。
 収載されている著作、評論、時評、いずれも初級簿記の翻訳である『帳合の法』と同程度かそれ以下の、稚拙なものであった。全体的に見て、江戸時代の寺子屋のレベルにさえ達していないオソマツなものだ。学ぶべきときに、「読み」、「書き」、「ソロバン」の基本の習得とその後の修練がなおざりにされていた人物による戯言(たわごと)である。
 安川氏が「福沢諭吉の思想が無節操であり、福沢には原理原則、哲学がなかった」と指摘しているのも、あるいは福沢が、青少年時代に歪(いびつ)な教育環境の中で育った故(ゆえ)なのかもしれない。
 つまり、江戸時代に世界最高レベルに達していたと言われている日本の教育システムに福沢が背を向けてデマゴーグに走った結果ではないか。。

 江戸時代の教育レベルの高さについては、30年前に、歴史学者の樋口清之が『梅干と日本刀』(祥伝社)の中で的確に指摘している。『梅干と日本刀』は、当時の常識をことごとく打破して語られている卓越した日本文化論であり、歴史学の知見をベースにしながらも考古学、民俗学、文学など幅広い分野の成果を縦横に駆使して書き下されている名著である。
 何よりも、著者自身の体験が随所に散りばめられていることが特徴だ。その実体験から生じた素朴な疑問についての謎解きが、実に分かり易い語り口で展開されている。見事としか言いようがない。いたるところに目からウロコの指摘がなされており、思わずヒザを叩くこと頻(しき)りである。

 樋口清之は日本人が知恵と独創性にすぐれていたことを力説する。ここで樋口のいう日本人とは一般庶民のことだ。「貧民階級」である一般庶民のことを「百姓」(ひゃくしょう、あるいはひゃくせい)というが、その「百姓」こそ日本人の中核であり、知恵と独創性にすぐれている人達であるという。民俗学でいうところの「常民」(People)のことである。さらに言えば、福沢諭吉が高等教育を授けるに値いしないと蔑(さげす)んだ「貧民階級」のことだ。
 このような一般庶民・貧民階級は、福沢諭吉が勧める怪しげな「学問」即ち「実学」を習得するまでもなく、すぐれた知恵を具え、独創性に富んでいたというのである。

(この項つづく)

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 ここで一句。

”アラフォーティ愛は終わって金に生き” 宝塚、忠公-

(毎日新聞、平成26年10月23日付、仲畑流万能川柳より)

(お金は記号、億・兆も夢幻(ゆめまぼろし)と見きわめて、彼岸(ひがん)を目指す愛もある哉。)

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