「福沢諭吉の正体」-⑧
- 2014.09.30
- 山根治blog
福沢諭吉の「脱亜論」がどのように形成されていったのか、安川寿之輔氏の論述(『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』)をもとにまとめてみる。
まず福沢の一般大衆に対する見方がいかなるものであったのか、これを見定めることが出発点となる。
すでに述べた(「福沢諭吉の正体」-①参照)ように、福沢は日本の一般大衆に対して偏見を持ち、彼らを「百姓町人の輩(やから)」と称し、「豚の如き存在」であると蔑視していた。ただ初期の段階では、学問を修めさえすれば、「豚の如き存在」であってもそれから脱することができるといった、啓蒙思想家もどきの低俗な主張を大真面目に行なっていた。
ところが、明治10年代に盛り上った自由民権運動に直面した福沢は、一般大衆への啓蒙を断念するに至り、呼称も「百姓町人の輩」から「百姓車挽(くるまひき)」へと変った。侮蔑の度合いがエスカレートしたのである。
彼ら一般大衆を「馬鹿と片輪(かたわ)」呼ばわりするようになると同時に、自由民権運動家・陣営を「無頼者の巣窟(そうくつ)」、「狂者」、「愚者」と蔑(さげす)んで憚(はばか)らなかった。
安川氏は、日本の一般大衆さえ「豚」とか「馬鹿・片輪」呼ばわりする福沢諭吉が、アジアの他国の一般大衆に対して偏見を抱き蔑視するのは何の不思議もなかったとする(前掲書.P.301)。
福沢諭吉が近隣諸国の人々に対して、蔑視・偏見を持っていた事実は彼の論述から明らかである。中国人を「頑陋(がんろう)不明なる支那人」と称し、ガキ仲間のケンカでもあるまいに、「豚」「乞食」「チャンチャン」呼ばわりし、朝鮮を「我(わが)属国となるも之(これ)を悦(よろこ)ぶに足らない」「小野蛮国」と言い放ち、台湾の一般大衆を「台湾蛮人」「禽獣(きんじゅう)」と扱(こ)きおろすなど、まさに言いたい放題であった。
福沢は、とりわけ中国兵に対して、ここまで言うかというほどの罵詈雑言(ばりぞうごん)を投げかけている。「猫ならまだしもだ、豚の癖に」と言ってみたり、「乞食の行列」「豚屋の本店」「けし坊主の頭の尻尾」「恥知らずの人非人(にんぴにん)」「生擒(いけどり)の大将…腐ったような穢(きた)ねへ老爺(ぢぢぃ)」などと罵倒・侮蔑したのである(前掲書.P.50)。これらの言葉からは、一般に福沢のイメージとして定着している教育者・思想家の片鱗もうかがうことができない。ここからは、劣等民族を軍事力で支配し、彼らの領土を収奪してもかまわないといった“侵略路線”つまり「脱亜論」へは一直線だ。
このように福沢は、ナチスを率いて、ユダヤ人を大量虐殺したアドルフ・ヒトラーを髣髴(ほうふつ)させるアジテーターそのものであった。そのような人物が、日本人のシンボルであるかのように、一万円札を飾っているのである。日本国民として恥ずかしい限りである。
日本の一般大衆だけでなく、中国、朝鮮、台湾の一般大衆をも蔑視していた福沢は、国内では自由民権運動が活発化し、福沢がモデルとした欧米先進諸国では労働運動・社会主義運動が盛んになるのに危機感を覚え、“後ろ向きの歴史的現実主義の立場への後退”(安川寿之輔氏の評言。前掲書.P.186)を表明した。
その福沢が選択したのが、富国強兵ならぬ「強兵富国」路線であった。つまり、「専(もっぱ)ら武備を盛(さかん)にして国権を皇張(こうちょう)し、無遠慮(ぶえんりょ)に其(その)地面を押領(おうりょう)する」とする“アジア侵略路線”である。
現在のアメリカは、世界のどこかで戦争を仕掛けなければ経済的にやっていけない軍事国家に成り下っているが、福沢が狂信的なまでに主張した「強兵富国」はそのようなアメリカの軍事国家路線そのものだ。自国の利益のために他国で戦争を仕掛け、他国の人々を殺し、その富を掠奪するといった、いわば海賊行為をこととする軍事国家そのものだ。
1882年(明治15年)7月の壬午(じんご)軍乱(注1)と、1884年(明治17年)12月の甲申(こうしん)政変(注2)を好機到来と考えた福沢は、最強硬の軍事介入を主張した。
とりわけ、甲申政変の際には、福沢自身が刀剣や爆薬類といった武器弾薬の提供まで行って世論を煽(あお)りたてた。現在の中近東のテロリストと同じである。
-(注1)壬午軍乱。じんごぐんらん。1882年(明治15年)7月23日、朝鮮旧軍隊が、俸禄米の支給遅延をきっかけとして起した、閔妃(びんひ)政権に対する反乱のこと。この軍乱の背景には、日本の援助のもとに軍制改革を主導してきた閔妃一族に対する反発があったとされている。
-(注2)甲申事変。こうしんじへん。1884年(明治17年)12月4日、漢城(かんじょう。今のソウル)で起きた閔妃政権に対するクーデターのこと。政府内改革派(独立党)が、壬午の軍乱の後、清国の力を借りて支配力を強化した守旧派(事大党)を打倒しようとしたとされている。
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ここで一句。
(“この病(やまい)、祖父(岸 信介)から続くDNA、お灸ごときで治りゃせぬ”)
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