天の逆手(あまのさかて)-2
- 2013.08.20
- 山根治blog
伴信友の随筆集「比古婆衣(ひこばえ)」に「天の逆手」を論じた一文がある(「比古婆衣」下、現代思潮社。P.143~P.146)。その中で信友は、「逆手」を借字とし、避手(サカテ)、即ち、サク(避く、放く、離く)テと読んだ。
「そは事代主神の御父、大国主神の領(うしはき)給へる此の御国を皇孫命(すめみまのみこと)に避献(さけたてまつ)るとして、其の礼儀(いやびわざ)に手拍ち給へるなるべし。」(前掲書、P.143)
避(さ)く(自動詞)、放(さ)く(他動詞)、離(さ)く(他動詞)は、次のような意味をもっている。
2. 放く、離く(他ラ四):引き離す。放ちやる。遠ざける。
(小学館、古語大辞典)
これまで統治していた日本国の支配権を、天孫に放(さ)け与え、自らは身を避(さ)け、この世から去っていくのである。
この国譲りの伝承は、日本書紀にも記録されているが、日本書紀には「天の逆手」の字句は出てこない。
平安時代初期に成立したとされる「旧事本紀」は、天孫族とされなかった一族の伝承をもとに古事記と日本書紀の記述をも取り入れて作られたものと言われており、信友は、古事記のこの条の文に比較して文章が整っていると評している。
この古事はまた、「出雲国造神賀詞(いづものくにのみやつこのかむよごと)」にも取り入れられているとして、引用され、「事避」(ことさか。政治的支配権を避(さ)け譲ること。)の字句が指摘されている。
なお、信友は上記引用文の「令事避」を「ことさけしめき」と訓じているが、現在は「ことさらしめき」と訓じているようだ(金子武雄、「延喜式祝詞講、名著普及会、P.270」)。
つまり、「避」を「さく」ではなく「さる」と訓じていることになる。
この読み方については、日本書紀の古訓も同様で、関連する条文の中では、「さる」「さり」の訓が付されている。
2) 避(さ)り奉(まつ)るべし。
3) 籬(かき)を造りて、船枻(ふなのへ)を蹈(み)て避(さ)りぬ。
4) 既に避去(さ)りまつりぬ。
5) 故(かれ)、吾亦(われまた)避(さ)るべし。
6) 今我避(さ)り奉(たてまつ)らば。
(岩波文庫版、「日本書紀」(一)P.118~P.120)
7) 吾(われ)は退(さ)りて幽事(かくれたること)を始めむ。
8) 吾(われ)、将(まさ)に此(ここ)より避去(さ)りなむ。
(同上、P.138)
伴信友は、「避」を「さる」、「さり」と読むことについて、
として逃げている。
改めて、「さる」について調べてみたところ、「さく」と同様の意味があり、相応の用例があることが判った。以下の通りである。
1) ひき離す。遠ざける。去らせる。
2) 離別する。離縁する。
3) 除く。捨てる。
4) 避ける。よける。
この言葉は、自分の意志で、遠ざけ、離すのが原義であるとされている。
(小学館、古語大辞典)
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ここで一句。
(詮索無用、嵐が去るのを待てばよい。)
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