中江滋樹氏との再会-①

 実に16年ぶりのことであった。中江滋樹氏から連絡が入り、久しぶりに会うことになった。

 一時期、音信が途断え、訃報を伝えるマスコミ情報とも相まって中江氏が亡くなったものとばかり考えていたことがあった。『ある相場師の想い出 中江滋樹』を書いたのはそのような時である。

 その後しばらくしてから、中江氏が近江八幡の自宅に自ら放火して逮捕されたことを報道で知り驚愕した覚えがある。彼に一体何があったのか、中江氏の人となりを知っている私には信じ難い出来事だったのである。

 中江氏に出会ったのは京都である。昭和51年のことだ。私は昭和51年7月、勤務していた監査法人に辞表を提出、その後3ヶ月の間仕事の引き継ぎと残務整理のために京都に留まっていた。氏と出会ったのはその間である。
 中江氏は京都の山科で、株式会社投資コンサルタントツーバイツーを設立したばかりであり、同僚の会計士からの紹介であった。中江氏は22歳、私は一回り上の34歳であった。
 昭和51年はまた、ロッキード事件という疑獄事件が明らかになった年でもあった。この年の7月には田中角栄前総理(このとき58歳)が、工作資金5億円の授受について外為法違反で逮捕されている。
 田中角栄氏はその後刑事被告人という立場をはねかえして派閥を拡大し、政界の闇将軍として政治権力を操ることになる。
 京都から東京に進出した中江氏は投資ジャーナル社を立ち上げ、田中派の派閥メンバーの数がピークに達していたころの田中角栄氏との知遇を得ることになった。田中角栄氏の信頼を得た中江氏は、派閥資金の運用と調達の一翼を担うことになり、折からのバブル経済の波に乗って会社の規模は大きくなっていった。

 中江氏に転機が訪れたのは昭和59年の初め頃であった。自民党の総裁選にからんで、田中角栄氏の資金源の一つであった中江氏の投資ジャーナルグループが狙い撃ちされたのである。政争の具にされたということだ。
 昭和59年8月、政界筋の意を受けた警視庁の幹部からガサ入れの予告がなされた。いくつかの処置をした上で日本からの出国を指示された中江氏は、幹部数人と共に日本を脱出している。中江氏に命の危険性まで示唆して出国を迫った警視庁幹部は、政界を巧みに泳ぎ回るキャリア官僚であった。
 予告通り、翌9月にグループ会社10数社に対して証取法違反の容疑で一斉に捜索が開始され、中江氏を含む幹部不在の中、取扱い銘柄の暴落と資金繰りの行きづまりによって、投資ジャーナルグループはあっけなく倒産。
 昭和60年2月、竹下登氏は、派閥領袖の元首相・田中角栄氏に反旗をひるがえして「創政会」を結成、派閥の主導権を握ることになる。
 昭和60年6月、警視庁は中江滋樹氏ら幹部11人を詐欺の疑いで逮捕。国外脱出を指示されてから10ヶ月、警視庁と綿密な打ち合わせをした上での帰国・出頭・逮捕劇であった。

 私は刑事被告人となった中江滋樹氏の要請で弁護団に加わり、警視庁が作成した捜査報告書の検証を行なった。詐欺を立証するとした同報告書は、報告書の体(てい)をなしていない余りにもオソマツなものであった。私は、会計的に多くの矛盾があることを指摘した意見書を弁護団に提出している。
 脱税事件を含む経済事件は、初めから結論ありきとばかりに、有罪の判決を下す傾向にあるが、中江氏の場合も例外ではなかった。東京地裁は、中江氏に懲役6年の実刑判決を言い渡して刑が確定した。

(この項つづく)

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 ここで一句。

“オトコより 段差によろめく 年になり” -袖ヶ浦、石井理江

(毎日新聞、平成25年5月11日付、仲畑流万能川柳より)

(いずこも同じ秋の夕暮れ。)

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