人間とハチュー類

 最近になって気がついたことがある。私には生まれつき特殊な能力が具わっていたということだ。

 特殊な能力といっても超能力ではない。知能指数が特別に高い訳でもなければ、特別な芸事(げいごと)ができる訳でもない。

 特別な芸事どころか、私にはまともに歌える歌がほとんどない。隠し芸にいたっては一つも持ち合わせていない。従ってカラオケも嫌いだし宴会も嫌いである。歌を忘れたカナリヤ、などと粋がっているが、もともと歌えないのである。

 40年以上会計士をやっているがパソコンとは無縁である。インターネットも使いこなせない。ケータイも持ったことがないし、これからも持つつもりはない。事務所のスタッフと二人の息子のサポートがなければ、会計士の仕事を続けることはできない。私が使いこなせるのはソロバンと電卓とペンだけだ。

 このようなないない尽しの私に具わっていた特殊な能力とは何か。
 初めて出会う人について、ごく稀ではあるが体質的に拒絶反応を示すことだ。名刺交換をして一言二言話をしただけで発作が起る。文字通り鳥肌が立ち、寒気に襲われるのである。
 こうなったらもういけない。できるだけ早くその場を離れてトイレに駆け込む。受け取ったばかりの名刺は破いてゴミ箱に捨て、手を洗ってケガレを落とすことにしている。
 著名人、富豪、大会社のオーナー社長、政府高官、政治家、-私には肩書は無用であるが、これまでこのような人種との出会いは数多くあった。通常セレブとされているこのような人種に限って言えば、一般の人に較べて鳥肌が立つ割合が多かったのはまぎれもない事実だ。
 私に生理的な拒絶反応を与える人達のことを私はひそかに「ハチュー類」と呼んでいた。人間の姿をした爬虫類である。積極的に排斥するわけではないが、私の生活圏に入ってきて欲しくない人達として明確に区別していたのである。敬して遠ざける、といったところだ。

 人間だれしも生まれた時からハチュー類であるわけではない。人間として生まれるのである。
 それどころではない。日本には昔から童子信仰が存在し、一定の年齢までの子供を童子(どうじ)としてとらえ、神の使い、あるいは神の如き存在とした。
 そのような童子が大人になるにつれて通常の人間になっていく。
 それがどのようにしてハチュー類にヘンシンするのか、定かなところはよく分からない。変身する原因はいくつか考えられるが、その最大のものはお金であると睨んでいる。

 このお金なるもの、古代ギリシャのアリストテレスにはじまり、近いところではマルクスもケインズも全力を挙げて解明しようとしたシロモノだ。
 しかし、これまで誰一人としてお金の正体を把えたものはいない。アリストテレスもマルクスもケインズも全て徒労に終っている。まさに魔性(ましょう)の存在だ。
 魔性の存在であるお金が、時として人を迷わせ惑わせる。まだこの段階ではごく一般的なことだ。人間であれば私を含めてほとんどの人が、お金に迷わされ、惑わされる。生きていくための性(さが)と言っていいかもしれない。男が女に、女が男に迷い惑わされるのと何ら変らない。
 ところが、この段階を一歩踏み越えてお金に狂う人がいる。お金の魔性にからめとられ、狂うのである。お金を使うのではなく、お金に使われる。お金の奴隷になるということだ。守銭奴である。
 このような人達に対して私の生身の身体が生理的に反応するらしいことが最近分かったのである。ハチュー類として敬遠した何人かの人物を思い浮かべてみると全てお金に狂った人達、お金の奴隷、守銭奴であった。

 現在70歳、私はこれまで幾度となく社会的に抹殺されそうになっている。生命の危険さえあった(「やりたい放題の査察官(3)」参照)ことが最近明らかになったほどだ。
 私は、お金という魔性の存在に常に直面している職業会計人、つまり職人である。会計士・税理士という職業柄、私に与えられる仕事は必ずお金が関係する。お金を扱う職人である限り、魔性の存在と縁を切ることができない。
 私がこの歳までなんとか生き延びてくることができたのは他でもない。人間の姿をしたお金の奴隷、「ハチュー類」を生理的に敬遠してきたからであると思うに至っている。私の特殊体質が奇しくも私を救い守ってくれていたのである。

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 ここで一句。

“アラサーに オバサン連発 小学生” -長崎、まいこパパ

 

(毎日新聞、平成25年5月5日付、仲畑流万能川柳より)

(連発するのは小学生だけ? その昔、20歳を過ぎれば年増(としま)といい、30歳にもなれば立派な大年増。)

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