原発とは何か?-号外④ 原発と鉄腕アトム
- 2011.10.05
- 山根治blog
***-原発と鉄腕アトム
夜中にほろ酔いかげんで、うつらうつらとしてテレビを見ていたところ、おなじみのキャラクターが目に飛び込んできた。かつて一世を風靡したテレビアニメの主人公鉄腕アトムだ。
エーザイの胃腸薬のコマーシャル。「ヒューマン・ヘルス・ケアのエーザイ」というナレーションの後に、鉄腕アトムが出てきて可愛らしい子供の声で「ボクを想い出してネ」と訴えかけるものだ。
アメリカの対日核戦略の一環として導入された原発。日本側で重要な役割を演じたのは正力松太郎氏と中曽根康弘氏だ。アメリカ側はCIA。近年公開されたCIAの公文書によれば、正力氏はCIAのエージェント(スパイ)として動き回り、CIAは正力氏に“ポダム”という暗号名を、正力氏の腹心の部下であった柴田秀利氏(後の日本テレビ専務)には“ポハルト”という暗号名をつけていたという(有馬哲夫著「原発・正力・CIA-機密文書で読む昭和裏面史」)。
岸信介氏がCIAのエージェントとして、長年の間CIAから多額の資金を受け取っていたことが明らかになったのは4年前のことだ(ティム・ワイナー「CIA秘録」文春文庫。“「安倍政権投げ出し」の原点、岸信介はアメリカのエージェントだった!”週刊文春、2007.10.4号)。中曽根康弘氏がCIAのエージェントであったかどうか現在のところ不明であるが、この先10年以内には原発絡みのCIA文書が開示され、白黒が明らかになるはずだ。
正力、中曽根、柴田、この3人の人物が行ったのは、広島と長崎に原爆を落とされて原爆アレルギーに陥っていた日本に、アメリカの核戦略を持ち込むことであった。このとき、平和利用という美名のもとに導入されたのが原発であった。アメリカの核戦略の最前線として日本が位置付けられ、日本はアメリカの核の盾としての役割を担うことになった。後年、中曽根康弘氏は総理大臣となり、日本列島を「不沈空母」であると発言して物議を醸したのであるが、これこそ若いときからの中曽根氏のホンネ、つまり、日本列島をアメリカの核戦略の前線基地にするというホンネが思わず漏れたものであろう。
そのために3人が行った工作は2つ。一つは政界工作であり、今一つはメディア工作(ブラック・プロパガンダ)だ。
政界工作は昭和29年、当時35才の中曽根康弘氏が国会を舞台に行ったものだ。今でこそ憂国の士然として振舞うこの大勲位、造船疑獄で沈没寸前であった第5次吉田茂内閣を文字通り恫喝して、初めての原子力予算(2億3,500万円)を鵜呑みにさせた。ヤクザ顔負けの工作であった。
この時の衆議院議長は“ピストル堤”こと堤康次郎氏、かつて陸軍の練習飛行場であった福島第一原発用地(のうちの30万坪)をタダ同然で政府から払い下げを受け、超高値で東京電力に買いとらせた人物だ。佐野眞一氏によれば、
という。ナント、国有地を転がして1万倍で売り抜けたということだ。政治家の立場を利用して、現在の貨幣価値に換算すれば、100億円以上の荒稼ぎをしたのである。同じく政治家の立場を利用して、数々の国有地の払下げ-転売で荒稼ぎをした田中角栄氏顔負けの所業である。ちなみに田中角栄氏、東京電力のもう一つの原発である新潟県の柏崎刈羽原発の用地に関しても抜け目がない。当時(昭和41年)自民党の幹事長であった田中氏は、ダミーの会社を使ってこの原発用地(のうちの16万5千坪)を転がすことにより4億円儲けたとされている(立花隆「田中角栄研究」講談社文庫)。
青年将校と言われた頃の中曽根康弘氏による、スパイ小説もどきの驚くべき政界工作は、日本に原発が戦略的に導入される出発点になると同時に、政治家中曽根氏が総理大臣にまで登りつめることのできた原点となるものだ。若き日の大勲位による政界工作の実態は、このたび当時の国会議事録を調べて判明したことであるが、稿を改めて詳述する予定である。
メディア工作、つまり、アメリカの対日心理作戦については、その主なものを時系列で示すことにする。
+1949年(昭和24年)11月3日、湯川秀樹氏にノーベル物理学賞。
+1952年(昭和27年)4月、手塚治虫「鉄腕アトム」連載開始。
+1953年(昭和28年)12月8日、アイゼンハワー大統領、国連総会で、原子力の平和利用をアピール。
+1954年(昭和29年)1月1日、読売新聞、大型連載「ついに太陽をとらえた」開始。ブラック・プロパガンダ(虚偽を交えた広報活動)の見本。
+1955年(昭和30年)5月9日、原子力平和利用使節団(ポキンス・ミッション)来日。
+1955年(昭和30年)11月、原子力平和利用博覧会開催。東京を皮切りに、1年かけて全国11ヶ所の都市を巡回。
+1958年(昭和33年)1月1日、ウォルト・ディズニー「わが友、原子力」日本テレビで放映。
+1963年(昭和38年)1月1日、国産テレビアニメ第1号「鉄腕アトム」フジテレビから放送開始。
湯川秀樹氏のノーベル賞受賞は私の小学校2年の時、手塚治虫氏のマンガ「鉄腕アトム」は小学校5年の時だ。これまで湯川博士は日本が世界に誇りうる立派な学者であると信じてきたし、手塚氏のマンガは私の子供の頃の最も大きな楽しみの一つであった。3.11の原発事故が起るまで、大多数の日本人と同様に何の疑いを持つことはなかった。
ことに手塚氏の「鉄腕アトム」は連載が待ち遠しく、ワクワクしながら読んだものだ。当時私は、近所の書店で本の配達のアルバイトをしていたが、雑誌が出るたびに無料で読むことが許されていた。このアルバイト、学費とこづかい稼ぎが目的であったが、新刊のマンガ雑誌が自由に読めることも大きな魅力であった。
マンガ、アニメながら、国民的アイドルにまでなっていた正義の味方「アトム」、3.11の原発事故によってイメージが汚染された。
エーザイをはじめ、かなり多くの会社がマスコットキャラクター(「手塚治虫のキャラクター リンク」 「鉄腕アトム マスコットキャラクター」参照)として用いているようであるが、今後それが吉とでるか凶とでるか、コマーシャル戦略の分かれ目である。
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ここで一句。
(男は次第に悪代官ヅラに、女は次第に般若ヅラに。)