180 珍書 -2

***その2)

 田中森一氏の著書「反転」を、珍妙な本という意味で珍書と呼んだ。通常使われることの少ない“珍書”というコトバを、敢えて手間ヒマかけて探しだしたのは、田中氏の基本的な主張(つまり、訴追は不当なものであり、冤罪であるという弁解)が倒錯した論理をベースにした珍妙なシロモノであるからだ。更に言えば、検事時代とその後のヤメ検時代の仕事にからむエピソードが饒舌に語られているのであるが、それらの多くは、高度な倫理性が要請される法曹人はもちろんのこと、一般人であってもやってはならないことがらであって、誇らしく語っている無神経ぶりが珍妙であるからだ。まともな論理的思考が欠落しているだけでなく、平均的日本人に具わっているべき倫理観がスッポリと欠落しているのである。

 田中氏は昭和18年生まれ、私と同世代である。九州の田舎で生まれ、少年期を極貧の家庭で育ったという。夜間高校に通い、苦労して岡山大学に入り、司法試験を目指す。戦中、戦後は、日本国中似たりよったりで、田中氏の環境が特別のものであった訳ではない。
 田中氏が少年時代の想い出を語っている中で、私がとりわけ注目したのは、次の4つのエピソードだ。これらは、法曹界に入ってからの数々の非行(驚いたことに田中氏は、どうだといわんばかりに誇らしそうに吹聴している)の萌芽(ほうが)とでも言えるものである。人としての最低限の倫理観が欠落している人物が、司法試験というペーパー試験に合格したことによって、検事をやり、弁護士をやっている訳だ。三つ子の魂、百までもといったところか。

 一つは、中学時代に他人の畑から白菜を盗んだことである。宿直の先生のところに友だちと押しかけていき、先生の命令で盗んだという。

“「あとでバレても、先生の命令だから、何ともない」”(“反転”、P.35)

と述懐する。
 二つは、同じ先生の自転車を盗んだことだ。

“「田中、ワシの自転車がのうなったんやけど、知らんか。見つけたら数学5やるぞ」
 そう言うので、適当に答えた。
「いや知らんばい。なら捜してみるけん」
 そんな牧歌的な時代だったから、楽しくはあった。“(同書、P.35)

 三つは、高校時代に、学校の教員になりすまして、学習参考書をただで送ってもらったという。

“教科書の奥付にある発行元の出版社に対して、
「中学校の数学を教えている田中森一という者ですが、私のクラスの授業に御社の問題集を採用したいので、参考のために送付してもらえませんか」
と、嘘を書いた手紙を三社の出版社に出した。すると、出版社側はてっきり学校の授業に使ってもらえると思い込む。案の定、すぐに送ってくれた。“(同書、P.38)

 四つは、大学時代に大道賭博のアルバイトをやったことだ。的屋(てきや)とも香具師(やし)とも呼ばれる人達がやっていた、インチキ賭博である。

“これはおもしろい、と思って、その的屋に弟子入りし、やり方を学んだ。そうして、同じように児島ボートの入り口付近で店を出すようになった。一応、学生アルバイトなので親方に時給をもらっていたが、それも500円以上。あの当時としては通常の5倍ぐらいの稼ぎになったが、それ以外に賭けのアガリを適当にポケットに入れてもわからない。これはおいしいアルバイトだった。”(同書、P.55)

 私は、若い頃のワルサについて非を唱えているのではない。子供のころ、遊びの延長としてゲーム感覚で人を傷つけたり、あるいは物を盗んだりするのは決して珍しいことではない。ほとんどの人は、義務教育が終了する頃までにはそのような段階を卒業し、普通の社会人となっていく。懐かしくもほろ苦い少年期の想い出として、心の奥底にしまいこまれ、時としてコドモの頃のヤンチャな想い出として語られる位のものである。
 先にあげた4つのエピソードのうち、はじめの二つ、つまり、白菜とか自転車を盗んだことは、善悪の理非が十分に分からない中学時代のことでもり、メクジラを立てるほどのことではない。
 しかし、残りの二つについては事情が全く異なっている。単なるヤンチャの域をこえており、犯罪そのものである。
 高校時代に、数学の教師を騙(かた)って出版社から学習参考書を騙(だま)しとったのは、詐欺以外の何ものでもないし、大学時代に、アルバイトとしてインチキ賭博をし、アガリ(不当利得金)を親方の目を盗んではポケットに入れていたのは、賭博に加えて横領までも行ったことを意味している。
 これらの想い出を田中氏は、得意そうに披瀝(ひれき)している。若気の至り、といった反省の念、あるいはザンゲの気持ちがないどころの騒ぎではない。抜け目のない、気転のきくことをなんとも誇らしそうに語っているのである。検事をやり、今もなお弁護士をやっている人物が発する言葉とはとうてい信じがたいものだ。私が、彼の著書を珍妙と評し、珍書と名付けた所以(ゆえん)である。

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