ホリエモンの弁解術 -2
- 2007.03.27
- 山根治blog
標題に使った弁解とはどういうことでしょうか。私は通常、言葉の意味を調べたり確認したりするには、岩波書店の広辞苑を用います。語彙(ごい)も豊富ですし、大まかな意味を把むのには便利だからです。しかし、言葉の持つ本当の意味合いとかニュアンスといったことに関しては必ずしも役に立たない。このような場合には、ユニークで面白いと定評のある、三省堂の「新明解国語辞典」を覗いてみることにしています。 “明解さん”と呼びならわして愛用している辞典です。
私の手許には、その第四版と最新版である第六版とがあります。第六版は総じて、第四版のアクの強い面白さが減じられています。比較すればより上品になっており、他所行きの言葉による説明に変えられているのです。生まれつき、とても上品とは言えない私ですから、どうしても品のよくない第四版の方が性に合うのです。
私はもともと貧しい家庭で育っており、このところ生活の上では若干豊かになったものの、とてもセレブな振舞いなどできそうにありません。私の作業着である背広は、安物の既製服ですし、ネクタイにいたっては、一本あれば、一年半か二年は大丈夫です。実のところ、ネクタイの色合いが次第に変化し、くすんでいくのをひそかに楽しんでいるのですが、なにかと世間体(せけんてい)を気にする配偶者が私の目を盗んでは、ウムを言わせずに廃棄処分してしまうのです。結婚して四十年、余計なお世話と言いたいところをジッと我慢。悟りの境地です。
風呂は必ず毎日、朝一番に入るのですが、ヒゲを剃り、部分的にセッケンで洗うのみで、全身を洗うことはほとんどありません。下着だけは一日一回、汗がでたらその都度取り替えますが、全身を洗うのは年に3~4回位のもの。ちなみに、今年はまだ一度も全身を洗っていません。このことについてはごく親しい人々にはそれとなく話したことがありますが、配偶者からは、みっともないし、恥ずかしいから余計なことを喋るんじゃないと叱られています。
先日、作家の五木寛之さんが阿川佐和子さんとテレビで対談をなさっていました。五木寛之さんのお話を拝聴して、なんとも嬉しくなりましたね。五木さんも風呂には入るが、身体は洗わない、しかも髪についても三ヶ月ほど洗わない状態が最適であるというのです。ちなみに、五木さんは配偶者が好きな作家の一人。まさにわが意を得たり、といったところでした。もっとも、身体を洗わないからといって、五木寛之さんになれるわけがない、と冷たく切り返されそうです。
ただ、髪については五木さんほどではありません。私も洗わなければ洗わないですごしたいのですが、私の髪はクセ毛の上に頭皮がフケ症ですので、三日もするとなんとなくむずカユくなり、クセ毛がモジャモジャと収拾がつかなくなるのです。若い頃、口の悪い京都の会計士に”ベートーヴェンの孫”と揶揄(やゆ)された所以(ゆえん)です。そこで仕方なく四日に一回位の割合で洗髪。しかしそのときも決してシャンプーとかリンスなどは使わずに、もっぱらセッケンを用いることにしています。
洗うと言えば、足がわりに転がしている私の車も、洗うのは年に四回程。購入してから三年半ほどになりますが、たまに洗車をするとピカピカの新車のようになりますので、新鮮な驚きを感じたりしています。ホントです。
閑話休題。私と同様、やや品位に欠ける明解さんの第四版に戻ります。
標題に掲げた弁解とは何か。“明解さん”によれば、「言いわけの意の漢語的表現」とあります。そこで、さらに「言いわけ」を引いてみますと、
と、具体的で分かり易い説明がなされています。
ちなみに、弁解と似た言葉に弁明という言葉があります。これまた、“明解さん”を引いてみますと、
とあります。
これで分かりますように、弁解と弁明とは似てはいるものの、全く異なった意味合いを持った言葉です。似て非なるもの、というわけです。つまり、弁解は、自らの行為が失敗であり、過失であり、あるいは犯罪であることを前提として、それらが必ずしも悪いことではないことを申し開きすることですし、弁明は、自らの行為が正当なものであることを前提として、その正当性を堂々と証明することです。あるいは、弁解はネガティヴなものをポジティヴに見せかけようと小細工することであるのに対して、弁明は、ポジティヴなものをそのままポジティヴであるとして主張し、説得することであるとでも言えるでしょう。
弁明という言葉から連想されるのは、プラトンの「ソクラテスの弁明」、通常、アポロギアと言われている作品です。訴えられたことに対してソクラテスは、全くのヌレギヌだとして一歩も譲らず、真理を前にして一切の妥協を排して堂々の論陣を展開。結果、アテネの法廷は、ソクラテスの弁明を無視して有罪の判決を言い渡し、ソクラテスは判決に異を唱えることなく、従容(しょうよう)として死に赴きました。
私が敢えて“ホリエモンの弁解術”と題したのは、似て非なる言葉である弁明を連想し、その背後にギリシャの哲人ソクラテスを思い浮かべたからであり、その対極的な存在である堀江氏のネガティヴな言動を浮き彫りにするためでした。
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ここで一句。
(セレブ、セレブともてはやされている、にわか成り金。ご本人達、セレブを演じて、結構くたびれていたりして。-ドライブの途中で「つくし」の群落を発見。車を停めてしばらく、つくし摘み。家に持ち帰り、つくしのハカマを一つずつむしりとり、アク抜きをして煮付けに。春の味覚をサカナに、どこからともなく手許に来ている手造りの酒を一杯、わが至福の時。)
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