出戻り会計士の弁

三年前、懲役1年6ヶ月、執行猶予3年の刑が確定したことによって、公認会計士の欠格条項に触れることとなり、会計士の登録が抹消されました。平成18年10月4日、執行猶予の言渡しを取り消されることなく3年が経過しましたので、刑の言渡しは効力を失い(刑法第27条)、登録の欠格条項が消滅いたしました。

これによって再び登録申請をすることができるようになりましたので、10月5日に登録申請をし、10月17日に登録が完了しました。再び公認会計士の業務ができるようになったのです。

振り返ってみれば、長い道のりでした。今から13年前の平成5年9月28日、広島国税局の査察(俗にいうマルサ)の強襲を受けたのを皮切りに、同8年1月26日には松江地検に逮捕され、松江刑務所拘置監での身柄拘束は291日にも及びました。最高裁まで争った刑事法廷では、中核的なマルサ事案については完全無罪を勝ちとったものの、いきがけの駄賃のように付け加えられた別件については執行猶予つきながらも有罪が確定してしまいました。別件についても無罪を確信していましたので、不本意ではありましたが、現在の裁判制度のもとではいた仕方なく、自らの心の整理をする以外に方法がありませんでした。
この13年間、蛇ににらみつけられたカエルのように、いわば生ゴロシのような状態が続いていました。山根治であって山根治ではない、誠に奇妙な感覚にとらわれていた13年だったのです。
とくに、逮捕されて刑事法廷で裁かれるという、この上ない屈辱を受けた7年間と、刑が確定して無資格者として食いつないでいかなければならなかった3年間は、私の人生観に革命的な変革をもたらしました。
私のものの見方が変ったためでしょうか、今まで気がつかなかったことに気がつくようになり、今まで見えなかったものが見えるようになりました。

会計士と税理士の資格が剥奪されてから直ちに「冤罪を創る人々」を執筆。平成5年9月28日(マルサの家宅捜索)から同15年10月4日(最高裁の棄却決定書の送達)までの10年間、私に一体何が起ったのか、客観的な資料に基づいてできるだけ冷徹に再現することが目的でした。3ヶ月程で完了、出版を考えていましたので、登場人物は全て仮名にしていましたが、あろうことか私を冤罪事件に陥れた当事者の一員が、私の仕事の現場で私の顧客を前にして私をあからさまに侮辱するという思いがけないことが起りましたので、仮名による出版の方針を急遽変更し、インターネット上で実名で公表することにしました。公職にあるもの、つまり、国税職員、検察官、裁判官、合わせて数十名の名前を仮名から実名に切り換えたのです。現在は諸般の事情によって公開を中断しています。
並行して始めたのが「山根治blog」でした。どん底にたたき込まれた私を見捨てることなく、変らぬ信頼を寄せて下さった身近な人々とのコミュニケーションを主な目的に始めたものです。私は原則、一週間に一本の原稿を作成し、東京にいる長男にファックスで送稿していました。情報の収集とサイトの管理運用は、主に2人の息子が担当し、分析し、文章に書き上げるのが私の役割でした。親子3人の合作というのが「山根治blog」の実態です。

この3年、気がついてみたら膨大な量の原稿を書いていました。やや太めの、パーカー・デュフォールドを手にして、文字通り一字一字書き続けた結果です。未公表原稿分の60万字を含めますと、実に200万字もの文字を紡いできたことになります。400字詰原稿用紙に換算して5,000枚、我ながら量の多さに驚いています。
40年前に配偶者と結婚したのを機に、それまで続けてきたかなりの量の日記を全て焼却して以来、逮捕拘留された291日を除いて、私は日記なるものをつけていません。私のブログは、この3年間の日記であり、考え続けてきた心の軌跡でもあります。また、このブログを通じていくつかの貴重な出会いがありましたし、5つほどのビジネスモデルを思いつくこともできました。副産物をはるかに超えるものと言っていいでしょう。

64歳からの再出発、私は会計にたずさわる一人の職人として、日本の片田舎から日本と世界の動きをじっくりと見つめていくと共に、職人としての私に何ができるか追い求めていくつもりでいます。

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ここで一句。

“銀行と生保の本業高利貸” -奈良、カス爺。

 

(毎日新聞、平成18年10月22日号より)

(楽天もいつの間にやら高利貸。)

 

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