冤罪を創る人々vol.94
- 2005.12.27
- メールマガジン
2005年12月27日 第94号 発行部数:411部
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「冤罪を創る人々」-国家暴力の現場から-
http://consul.mz-style.com/catid/11
日本一の脱税事件で逮捕起訴された公認会計士の闘いの実録。
マルサと検察が行なった捏造の実態を明らかにする。
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山根治(やまね・おさむ) 昭和17年(1942年)7月 生まれ
株式会社フォレスト・コンサルタンツ 主任コンサルタント
http://consul.mz-style.com/
【お知らせ】
年内の発行は今回が最後となります。2006年は1月10日よ
り発行する予定です。皆様よいお年をお迎えください。
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●「引かれ者の小唄」 ― 勾留の日々とその後
http://consul.mz-style.com/catid/41
「自弁品アラカルト -その3」より続く
http://consul.mz-style.com/item/453
5.自弁品アラカルト
4)その4
房内の検査のことを捜検(そうけん)という。捜索検査の略称で
あろうか。月に2回位の割合で、担当看守ではない看守が二人一組
になって、独房の隅々までことこまかに調べるのである。
「ソウケン!」と一声(ひとこえ)発するや、ガチャガチャと鍵
を開け、二人の男が部屋にヌッと入ってくる。房内で何をしていよ
うとお構いなしだ。廊下に連れ出され、外側の壁に向って立たされ、
次いで中腰になるように指示される。壁に向ってしゃがむのである。
ひとしきり房内をかきまわし、検査が終わると、「ソウケン、終
り!」の掛声と共に「起立!」の号令が発せられ、房に連れ戻され
る。
捜検のたびに、揶揄(やゆ)とも嫌味ともつかぬ言葉が看守から
発せられるのが常であった。
「品物がやたらに多いのう。たいした金持ちだ。まるでスーパーの
店先のようだな。」
たしかに私の部屋には多くのものが運び込まれていた。分量とし
て最も多かったのは、裁判関連の資料であり、A4版のコピーを平
たく積み上げた1m程のかたまりが3つあった。
次いで目につくのは、各種辞典とパンフレット類であった。辞典
類は房内所持書籍の別口として7冊まで持ち込むことが許されてい
たので、広辞苑、岩波古語辞典、新明解国語辞典、学研漢和大辞典、
万葉集辞典などを常備していたし、パンフレットもこれまた別枠と
されていたので、友人に頼んで奈良時代に関連するパンフレットを
差入れてもらっていた。友人が奈良から取り寄せたり、あるいはわ
ざわざ奈良まで出向いて手に入れてくれたものだ。
中でも次の6冊のパンフレットは思い出深いものであり、紙がす
り切れるほど繰り返し読んで楽しんだ。
1. 平城宮跡資料館図録
(奈良国立文化財研究所、84ページ)
カラー写真がふんだんに用いられ、現在までの発掘成果がコンパ
クトにまとめられている楽しい読物。
2. 飛鳥資料館案内
(奈良国立文化財研究所、99ページ)
白黒写真を主としており、1.とは異なった切り口で「飛鳥」を
分かり易く解説した読物。
3. 飛鳥
(株式会社飛鳥園、32ページ)
飛鳥万葉に焦点をあてた解説付写真集。
4. 「’96藤原京スペシャル」
(歴史ウォーク推進実行委員会、121ページ)
産経新聞社が企画した文化イベント”古代史遊ing”のレジュ
メ。橿原と明日香を中心とした万葉ガイダンス。
5. 憧憬古代史の吉野 ― 記紀・万葉・懐風藻の風土記
(吉野町経済観光課、133ページ)
記紀・万葉の吉野について原文を抄録して分かり易く写真入りで
解説し、幽玄な吉野の世界に誘(いざな)う。本居宣長の菅笠日記
までも取り込んだ労作。
6. 高岡市万葉歴史館 ― 常設展示と館蔵主要古典籍
(高岡市万葉歴史館、37ページ)
高岡市は、大伴家持が国司として赴任し、5年の任期中に多くの
歌を詠んだことで知られている。華麗な越中万葉の世界が、鮮やか
なカラー写真を添えた秀歌によって展開されており、一読するや、
現地に行きたくてウズウズするような出色の案内書。
パンフレットの入房数が10冊を超えるようになった時、案の定、
官からクレームがついた。
パンフレット類ということで入房を許可しているが、内容を見る
と書籍ではないかというのである。言われてみれば確かにそうであ
る。書籍であるとすれば、すでに3冊の制限いっぱいに所持してい
るので、全てのパンフレット類が房内から召し上げられてしまう。
これらのパンフレット類が私の手許から離れるとすれば、私の楽
しみが大幅に削られることになる。そうなったら大変だ。
私は一計を案じ、屁理屈をこねまわして抵抗することにした。
(続きはWebサイトにて)
http://consul.mz-style.com/item/457
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●山根治blog (※山根治が日々考えること)
http://consul.mz-style.com/catid/21
中江滋樹の想い出
http://consul.mz-style.com/subcatid/12
・ 投資ジャーナル事件の真相 -1
今から21年前の1984年8月23日、投資顧問業の企業グルー
プが警視庁の摘発を受けて、あっけなく倒産してしまいました。相
場師中江滋樹氏が経営する投資ジャーナル社をはじめとする14社
に及ぶ企業グループでした。
時のマスコミはガサ入れの半年程前から中江氏個人と投資ジャー
ナル社のバッシングを始め、ミソもクソも一緒にしてあることない
ことを喧伝し、中江氏を稀代の詐欺師に仕立てあげていきました。
倒産の引き金になった警視庁の摘発は、証券取引法違反によるも
のでしたが、この摘発自体、違法性の高いのものであったと言われ
ています。その後の取調べによって証券取引法違反には該当しない
ことが判明し、当局としては立件することができなかったからです。
翌1985年の6月19日、中江氏は警視庁に逮捕されます。結
局中江氏は多くの被害者を出したとして詐欺罪に問われ、懲役6年
の実刑が宣告されました。
これが世にいう「投資ジャーナル事件」のあらましです。10年
ひと昔といいますが、20年もたちますと事件はすっかり風化して
しまい、世間からはほとんど忘れられてしまった感があります。
「あの人は今」といった形で年に1~2回思い出したようにとり
あげられたり、あるいは他の経済事件の記事の中でわずかに言及さ
れる位のものになっています。
しかし、私には中江氏と「投資ジャーナル事件」は、忘れように
も忘れることができない存在でした。風化するどころか、年を追う
につれて私の中でますます大きくふくらんでいったのです。
「投資ジャーナル事件」とは何であったのか、中江滋樹という人
物は一体何者であったのか、詐欺師のレッテルが貼られているもの
の、本当のところはどうなのか、―
私の疑問は釈然としないままに揺れ動き、この20年の間私を悩
まし続けてきました。
中江滋樹氏と出会ったのは30年程前のことで、私が34歳、中
江氏は私より一回り若い22歳の時でした。
中江氏は株式会社投資コンサルタントツーバイツーという会社を
設立したばかりであり、私は、当時の勤務先である監査法人があっ
た京都で、郷里での会計事務所開設の準備をしていました。中江氏
から税務顧問の依頼を受けましたので、中江氏の会社が山根会計事
務所の第一号の顧問先となったのです。
仕手筋をはじめ株がらみで仕事をしている人の多くが、脱税の嫌
疑をかけられてつぶされている現実を知悉していた中江氏は、こと
税務に関しては神経質ともいえるくらいの注意を払っていました。
会社の規模が大きくなるにつれて、中江氏の懸念は現実のものと
なり、国税による税務調査が頻繁に繰り返されるようになったので
すが、全てクリアーすることができました。専門家としての私の指
示をキチンと守っていたために、税務当局から不当ないいがかりを
つけられることがなかったからです。
中江氏とは税務のことだけではなく、さまざまなことがらについ
て話し合いました。しかるべき礼を尽し、約束を守る人物であった
というのが私のいつわらざる印象です。
中江氏に限らず、彼のまわりにいた人で私が親しくお付き合いを
した人は、わずかの例外を除きますと、立派な方々ばかりでした。
奥さんのK子さん、有能な経理担当であったT.Jさん、投資ジャー
ナル社のK.F社長、同社のT.K総務部長、M営業部長、東京ク
レジット社のS社長、いずれの方も私の中に悪い印象がまったく残っ
ていないのです。
それなのに何故、中江氏をはじめこの人達が詐欺師グループとし
て世間から糾弾され、司法においても詐欺罪として断罪されなけれ
ばならなかったのか、私にはどうしても納得することができなかっ
たのです。
―― ―― ―― ―― ――
ここで一句。
“情を捨て妻捨て子捨て友を捨つ いずれ支持者も拉致被害者も”
-大阪府池田市、医師岡崎欣一、77歳。
(朝日新聞:平成17年12月6日号“声”欄より)
(小泉純一郎さんと慶応大学の同級生であった栗本慎一郎さんが、あ
る週刊誌で小泉さんを評して、非情ならぬ欠情の人と言っています。
人としての情を欠いていたり知能レベルに問題があるとして、“パ
ンツをはいたサル”とまで酷評しているのには驚いてしまいました。
栗本さんの小泉評の当否はともかくとして、相場師中江滋樹氏に
関していえば、非情とか欠情どころか、逆に多情とでもいえる人物
であったと言えるようです。)
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