冤罪を創る人々vol.86

2005年11月1日 第86号 発行部数:417部

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「冤罪を創る人々」-国家暴力の現場から-

日本一の脱税事件で逮捕起訴された公認会計士の闘いの実録。
マルサと検察が行なった捏造の実態を明らかにする。
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山根治(やまね・おさむ)  昭和17年(1942年)7月 生まれ
株式会社フォレスト・コンサルタンツ 主任コンサルタント
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●勾留の日々-つづき

「(3)うっぷん晴らしとしての反則行為 -その2」より続く
http://consul.mz-style.com/item/420

(4)うっぷん晴らしとしての反則行為 -その3

看守に対して抗弁等をすることは、「職員の正当な職務行為を妨
げる行為」(被収容者遵守事項の8)として禁じられている。

“法令、所内生活の心得又は日課実施上の必要に基づく職員の職務上
の指示に対し、揶揄(やゆ)、暴言、抗弁、無視その他の方法で反
抗的な態度をなし、又は口出しするなどして職務の執行を妨害して
はならない。”

看守をからかったりバカヤローなどと暴言を吐いたりしてはいけ
ないし、看守の言うことに逆らったり、シカトしてもいけないので
ある。
更に、大声を発したり、歌を歌ったり、口笛を吹いたりすること
などもってのほかである。

“故なく大声を発し、放歌し、口笛を吹き、又は壁・扉を叩く等騒音
を発して静穏な環境を害してはならない。”(同上、6-(1) )

生まれつきヘソが少しばかり曲がっている私は、理不尽なことを
押し付けられると、ヘソがますます曲がってしまう習性を持ってい
る。
声に出してからかうのがいけないというのであれば声を出さなけ
ればいいわけで、それぞれの看守にニックネームをつけ、看守が独
房に来たり、取調室で尋問されるたびに心の中でつぶやいた。ノー
トに書くことは禁じられていないので、獄中ノートに記録した。

・逆さボタル (若い看守であったが気の毒なことに頭がツルツルテ
ンで、看守帽を深くかぶって隠していた。)

・蒲焼 (中年の粘着質の看守。顔面がうなぎのようにヌルヌル、ギ
トギトしていた。)

・鼻大仏 (見事な獅子鼻の持主。鼻がひっくり返っており、2つの
鼻の穴が真正面を向いていた。)

・赤モグラ (私と同年輩の看守の親分。私は何回かこの人物に取調
室で尋問を受け叱責されたが、その都度この人物の顔面は怒りの
あまり赤黒く膨れ上がり、ゴソゴソと地上に顔を出したモグラさ
ながらであった。)

「生類憐みの令」がエスカレートしていくと、人々は触らぬ神に
祟りなしとばかりに、できるだけ犬に関わらぬようにしたこともあっ
て、犬の数は増えていき、餌を求めて凶暴になっていった。

元禄8年(1695年)6月には、四谷と大久保に犬小屋が造営
されて、「人に荒き犬」が収容された。同年8月には、中野の16
万坪の土地に大規模な犬小屋が造られて、江戸市中の飼い犬も含め
て大方の犬が収容されることになった。
犬小屋への犬移しは、大勢の江戸っ子の見守る中で行われた。見
物人は、役人が手際よく犬を扱いうまく犬移しをすればやんやと囃
して褒めたたえ、犬が逃げ出したり暴れたりして役人が手こずった
りすればこれまたやんやと囃して笑いものにした。
末端の役人としては、理不尽な政策といえども、上からの命令で
あれば押し進めなければならない。犬に翻弄されている彼らの姿は、
実に滑稽なものであったに違いない。江戸庶民の格好の娯楽であっ
たろうし、またとないうさ晴らしでもあったろう。
元禄13年7月、今後は犬見物をして囃したてたりしないように
次のような御触れが出されている。

“辰の7月12日、喜多村にて町々名主へ申し渡す。
頃日(けいじつ)、御小人目付衆犬うつしに遣はされ候節、見物集
り、よくうつし候へばほめ申し候、またうつし損じ候へばわらひ申
し候。番人も前方(まへかた)は人をも払ひ申し候ところに、只今
は一切払ひ申さず候ゆゑ、ぢだらくにこれ有る間、よくよく仰せ付
けられ候やう御目付衆より越前守様へ仰せ越され候に付き、右の通
りこれなきやう致すべき旨、申し渡され候。“

今から300年ほど前の江戸っ子の理不尽に抑圧された気持が、
拘置所暮しを経験した私にはストレートに伝わってくる。
たとえどのような状況に置かれようとも、結構のびのびと逞しく
生き抜いていった元禄の人々の姿を、自らの姿にダブらせて楽しん
でいるのである。

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●山根治blog (※山根治が日々考えること)
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「江戸時代の会計士 -11」より続く
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・ 江戸時代の会計士 -12

恩田木工が提言した7つのことがらは、領民にとっては都合の良
いものばかりでした。この7つの提案を前提として、いよいよ領民
の負担となる3つの提案を“無心”という言葉を用いて切り出すの
です。ちなみに無心は、広辞苑によれば「遠慮なくものをねだるこ
と」とされています。
恩田木工が領民に対して行った無心の第一は、次のようなもので
した。

“先納・先々納致候者共へは、何卒(なにとぞ)御返済なされたきも
のなれども、皆知りたる通り一向御引当(おひきあて)これなく、
その上に今皆の聞く通り、未進(みしん)の分は呉(くれ)て仕廻
(しまい)ければ、弥以(いよいよもっ)て先納・先々納の分へ返
済出来ぬなり。依って、只今まで先納したる分は御上(おかみ)の
取り得にして、其方(そのほう)共は出し損にしてくれよ。この所
が皆への無心なり。得心してくれ候や。”
(年貢を一年分あるいは二年分先払いしている領民に対しては、殿様
としては何とかしてご返済なさろうとはお考えになるものの、皆も
知っての通り、全くもって返済の財源がなく、その上に今皆が聞い
ての通り、未納の分は棒引きにして徴収しないことにしたために、
いよいよもって先払い分の返済ができないことになった。よって、
現在までに先払いした分は、殿様のもらい得、先払いした者達の払
い損ということにしてはくれないか。このところが、皆への無心で
ある。承知してくれるだろうか。)

つまり、年貢の先払い分を帳消しにして欲しいというのです。
これに対して領民たちは、口を揃えて同意するのでした。

“畏り奉り候。向後(こうご)先納・先々納申しつけまじくと先刻仰
せつけられ候へば、只今まで差上げ候分は一粒も頂戴仕(つかまつ)
るまじく候。左様御聞き届けなされ候様に。”
(謹んで承りました。今後は、先納・先々納を申し付けないと先刻仰
せられましたので、これまで先払いいたしました分は、一粒の米と
いえどもお返し下さらなくとも結構でございます。そのように承知
おき下さいますように。)

木工の第一の無心を快く受け入れてくれた領民に対して、恩田木
工は、
“先づ以て皆々得心してくれて、千万過分に存じ候。”
と謝意を述べた上で、第二の無心を切り出します。

“その無心といふは、右の先納・先々納を損にして、その上当年貢を
上納してくれよ。左(さ)なくては、一向御取続きに相成らず候。
もしこの儀、其方共得心してくれねば、手前が切腹といふはここの
事じゃ。”
(その無心というのは、先納・先々納を帳消しにした上に、当年分の
年貢は上納して欲しいということだ。そうでなければ、藩の財政が
うまく回っていかなくなる。もしこの件について、皆が納得してく
れなければ、私は腹を切らなければならぬことになる。)

木工が切り出した第二の無心は、年貢の先払い分は棒引きにした
上で、当年分の年貢を納めて欲しいというものでした。
更に木工は言葉を継いで、領民の損得勘定を示して、領民にとっ
ても決して悪い話しではないことを明らかにします。
ここで出てくるのが算用(さんよう)という言葉であり、算者
(さんじゃ)という言葉です。算用とは広辞苑によれば、数を計算
することですので、算者とは数を計算する人、経理マン、あるいは
数理の専門家である会計士といったところでしょう。

“其方共も算用してみたかも知らねども、手前算者に積もらせ、自身
にても当ってみたれども、”
(皆も計算してみたかも知らないが、私も、計算の担当者に積算させ、
私自身も計算してみたところ、)

と前置きをしている通り、部下の算者に損得の計算をさせているば
かりではなく、木工自らも計算のチェックをしたと言っているんで
すね。算者の計算をチェックして確かめたというのですから、恩田
木工自身、算者に匹敵する、あるいはそれ以上の計算能力を有して
いたのでしょう。
領民を心底から納得させるために、領民の損得勘定を数字で示そ
うとしたところに恩田木工のユニークな姿勢がうかがえます。
“由らしむべし、知らしむべからず”といった統治者からの一方的
な政策ではなく、藩の内情と税の徴収実態を領民に明らかにした上
で、領民と共に藩の財政改革を推し進めようとしたのです。

恩田木工より前に、財政問題のエキスパートとして、松代藩の財
政再建に取り組んだ男がいました。田村半右衛門という人物です。
この人物は、権力をふりかざして支出の大幅削減という強硬策を
実施したのですが、当然のことながら領民の大きな反感を買い、大
規模な百姓一揆を引き起こしただけでなく、下級武士である足軽の
一部も巻き込んで大騒動にまで発展し、せっかくの財政改革も完全
な失敗に終ったのでした。田村半右衛門は、命からがら夜逃げ同然
の形で信州松代の地を後にしています。
この失策を目の当たりにした恩田木工は、藩の財政改革を実りあ
るものとするためには、何よりも領民を心から納得させることが必
要であることを肝に命じていたことでしょう。

―― ―― ―― ―― ――

ここで一句。

“マニフェストまた選挙までお蔵入り” -平塚、たびっと。
(毎日新聞:平成17年10月18日号より)

(「このくらいの公約を守らないなんて、たいしたことではない」と
国会の場で堂々と居直った首相。片や切腹覚悟で領民との話し合い
に臨んだ恩田木工。)

 

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