冤罪を創る人々vol.85

2005年10月25日 第85号 発行部数:415部

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「冤罪を創る人々」-国家暴力の現場から-

日本一の脱税事件で逮捕起訴された公認会計士の闘いの実録。
マルサと検察が行なった捏造の実態を明らかにする。
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山根治(やまね・おさむ)  昭和17年(1942年)7月 生まれ
株式会社フォレスト・コンサルタンツ 主任コンサルタント
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●勾留の日々-つづき

「(2)うっぷん晴らしとしての反則行為 -その1」より続く
http://consul.mz-style.com/item/416

(3)うっぷん晴らしとしての反則行為 -その2

江戸時代に犬公方(いぬくぼう)と呼ばれた将軍がいた。第五代
将軍徳川綱吉である。天下の悪法として名高い「生類憐みの令」を
発した人物だ。
「生類憐みの令」は、貞享2年(1685年)7月14日に出さ
れた触(ふれ)が、文献上で残っている最初のものとされている。
この御触は、

“先日申し渡し候通り、御成遊ばせられ候御通り筋へ犬猫出し申し候
ても苦しからず候間、何方(いづかた)の御成の節も犬猫つなぎ候
事無用たるべきものなり”

という誠に穏やかなもので、将軍が街中に御成りになった際にも、
犬猫を綱につなぎとめておく必要はないとするものであった。
その後、綱吉の死(宝永6年、1709年)に至るまでの24年
の間に個別の法令(御触れ)が矢継早に発せられ、規制内容は次第
にエスカレートし、激しさを増していった。中でも犬に関しては、
元禄7年(1694年)が激しさのピークとされており、犬を殺し
たことをもって、市中引き回しの上、獄門さらし首という者が続出
した。
元禄時代といえば、戦乱の世は遠く過去のものとなり、天下は太
平の世を謳歌し、「生類憐みの令」が特に厳しく施行された江戸の
町においては、いわゆる元禄文化の華が開き、経済的にも豊かになっ
た江戸町民の意気たるや盛んなるものがあった。
犬を殺したり、粗末に扱ったりしたら、死罪とか島流しになる訳
で、江戸っ子としたらたまったものではない。「てやんでえ」とは
思いながらも、表立ってお上を非難することもできず、鬱憤が溜り
に溜っていたことであろう。
江戸っ子も、唯々諾々としてお上のなすがままになってはいなかっ
た。洒落っ気のある町人が誠に珍妙なうさ晴らしの方法を考えつい
た。町の中に桶をすえつけ、ご丁寧に桶とひしゃくに“犬かけ水”
と筆で記し、番人には「犬」印の羽織を着せて、この稀代の悪法を
痛烈に皮肉った。噛み合って喧嘩をしている犬をみつけたら、水を
かけて引き離せ、という次のようなお触れに呼応したものだ。

“元禄七甲戌(きのえいぬ)二月廿八日、端々(はしばし)にやせ犬
多く相見え候、いよいよ念を入れ養育仕り候やう仕るべく候。かつ
また、向後御用先にて犬喰い合い候とも、早速水にても掛け、引き
分け候やうにと、但馬守殿仰せ渡され候間、有り合ひの面々へ申し
渡し候。”

お上も黙ってはいない。おちょくられたことに業を煮やして、こ
の年の5月にはお触れを出して禁止してしまった。不粋である。

“               覚

町中にて犬かけ水と桶に書き付けいたし、ひしゃくにも書き付け
これ有る由、または番人に対(つい)の羽織を着せ、犬といふ字を
紋所に付け、指し置き候由相聞え候。桶ひしゃくの書き付け、対の
羽織きせ候義、早々無用に仕り、水指し置き番人付け候義も目に立
たざるやうに仕るべく候、以上。
右の通り相心得申すべく候。併せて犬の儀そまつに仕らず、諸事
いたわり申すべく候、この旨町中残らず相触れらるべく候、以上。

閏 五月三日“

罰則まで付いている理不尽な規則という点では、拘置所の規則と
同じようなものである。規則を運用する役人たちのサジ加減一つで
処罰の度合いがどうとでもなることもそっくりだ。
元禄の世の江戸っ子のようなウイットには遠く及ばないものの、
拘置所の中では私なりの方法で鬱憤を晴らしていたのである。

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●山根治blog (※山根治が日々考えること)
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「江戸時代の会計士 -10」より続く
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・ 江戸時代の会計士 -11

次に木工は、領民のうちで御用金(江戸時代、幕府、諸藩が財政
窮乏を補うため臨時に御用商人などに賦課した金銭。-岩波書店、
広辞苑)を出している者達に向って、問いかけます。

“御用金を出したる者ども相詰め候や。其方共は何故に御用金は差上
げ候や。上納すれば利足(りそく)にても下され候や。何ぞ勝手に
よろしき筋これあり候て指上げ候か如何(いかが)。”
(御用金を出した者たちはここに来ているか。お前達は何故御用金を
出したのであるか。出せば利息でももらえるというのか。あるいは、
懐具合にいいことでもあって上納したのであるか、どうか。)

領民はこの問いかけに対して、滅相もないとばかり、次のように
答えます。

“只今まで折々御用金差上げ候へども、御利足下され候儀は勿論、元
金にても終(つい)に御返済遊ばされ候儀御座無く候て、難儀至極
仕り候。御役人中様より厳しく御取立なされ候故、是非なく差上げ
候。”
(いえいえ、今まで折にふれて御用金を出しましたものの、利息をい
ただくことは勿論のこと、元金さえも返済していただけない状況で、
困り果てているのです。役人様が厳しくお取り立てなさいますので、
やむをえず出しているような次第です。)

これを受けた恩田木工はまたしても領民と役人とを叱りつけます。

“さればとよ、役人より申しつけ候とも、何分御座らぬと言ひ断り申
すべき筈なり。縦(たとい)公儀より御用金仰せつけられ候とも、
手前共が江戸へ出て、御座らぬと言ふて出さぬとて、殺すにもなら
ず。然らば、出る筈はなき訳なれば、それを言ひつけ次第出すと言
ふは、其方達が所持して居ればとて御返済も無き金を出させると云
ふは、余りとは非道(ひどう)の仕方なり。”
(それはそうかもしれないが、役人から申しつけられたからといって
も、出すお金はございませんと言って断るのが筋というものだ。当
藩が幕府より御用金を出せと言われても、われわれが江戸まで出向
いて、ございませんと言って御用金を出さないからといって、それ
で殺される訳ではない。そう考えれば、出るはずはないではないか。
しかも、役人に言いつけられたらすぐに出すというのは、一体どう
いうことなんだ。役人も役人だ。お前たちが金を持っているからと
いって、返済もできないような金を出させるというのは、あまりに
もひどいやり方だ。)

木工は以上のように叱りつけた上で、再び

“斯(か)く言ふは理窟なり”
(このように言うのは理屈というものだ。)

と一転して別の考え方を提示して、領民と役人双方を誉め上げるの
です。

“誠は御上に御金なき故に、江戸表の御役儀も相勤めなされかね候故、
其方共が当時持ち合わせたるを幸ひに無心(むしん)して、拠(よ
んどころ)なく御用金も出させて、江戸表の御用も弁じたるものな
り。返済したくとも、元来なきもの故の仕方なさに、その儀なく打
過ぎたるものなり。然れば、役人の非道と言ふものにもあらず、其
方共が江戸御用の訳を篤(とく)と知りたる故、迷惑ながらも指出
(さしだ)したるものなり。それ故、御用も御間(おま)欠けなく
相済み、奇特(きどく)千万なり。其方達の出金(しゅっきん)故、
江戸表御役筋御首尾よく相勤まり、殿様にも御満足遊ばされ候こと
神妙なり。”
(実際のところは藩にお金がないために、江戸での公務も十分にでき
ないような状況で、お前達が当時持ち合せていたのをいいことにし
て無理にお願いして、やむなく御用金を出させて江戸での費用も賄っ
たものだ。
返済しようと思っても、もともとお金がないのであるから、返済
することなく今に至ったものである。こう考えれば、役人たちがひ
どいやり方をしたとも言えない。お前たちが江戸での公務の内情を
十分に知っているために、迷惑とは思いながらも出したものだから
だ。それによって公務もとどこおりなくやりとげることができ、誠
に殊勝なことである。
お前たちがお金を出してくれたおかげで、江戸での公務も首尾よ
く勤めることができ、殿様におかれては御満足されている、これま
た殊勝なことである。)

恩田木工は、このように話した後、6つ目の提案をいたします。

“この已後(いご)、御用金等一切申しつけまじく候間、左様に心得
申すべし。”
(今後は、御用金など一切申しつけたりはしないこととするので、そ
のように承知するように。)

今後は御用金を出さなくてもよいというのですから、領民一同、

“有難き仕合(しあわ)せと請(うけ)申し聞(き)け候。”
(ありがたいことでございます、と木工の言葉を受けとめたのであっ
た。)

恩田木工は、最後の7つ目の提案にとりかかるのですが、それに
先だって、年貢未納について厳しく叱責いたします。「日暮硯」の
筆者の筆はいよいよ躍動し、会合におけるクライマックスを描き出
すに至ります。

(続きはWebサイトにて)
http://consul.mz-style.com/item/421

 

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