江戸時代の会計士 -2
- 2005.08.09
- 山根治blog
恩田木工の行なった財政改革は、この「日暮硯」で描かれているものとは、史実的に必ずしも一致しないと言われています。ただ、私には、「日暮硯」の内容について史実と突き合わせて考証する能力もなければ、興味もありませんので、以下、「日暮硯」の記述のままに、恩田木工の財政改革の足跡を辿ってみます。
信州松代藩10万石、第6代当主真田伊豆守幸豊。宝暦2年(1752年)、13才で襲封(しゅうほう。領地を引き継ぐこと)して3年目の宝暦5年(1755年)、真田侯は、当時39才であった末席家老の恩田木工を江戸屋敷に呼び寄せ、勘略奉行を仰せ付けます。 人格、識見ともに秀れているとの評価の高かった若い恩田木工に白羽の矢を立て、窮迫していた藩の財政建直しを命じたのです。
勘略奉行(かんりゃくぶぎょう)というのは、倹約と財政整理のための責任者のことですが、主君の命を受けた恩田木工は、文字通り、一命を賭してやり抜こうと決意します。しかし、恩田木工は、主命だからといって唯々諾々として勘略奉行の職を引き受けた訳ではありません。殿様に対して、引き受けるための条件をしっかりと出しているんですね。
つまり、
(右の役目を勤め上げますためには、もし私が提案いたしますことについて、『そんなことはまかりならぬ』と言われることがありましたなら、勤めを全うすることができませんので、老中の方々をはじめお役人の方々は私が提案することについて、どのようなことでも決して反対しないという念書をいただきたいと存じます。)
と、訴訟(そしょう。つつしんで申し上げること。嘆願)しています。
藩の重役の中でも一番若い末席家老の身としては、たとえ主君の命令で改革を実行しようとしても、家臣に抵抗されると改革が空回りし、絵に描いたモチになることをおそれたのでしょう。
それにしても封建時代の君主の命令に対して、全権委任を明確にするという条件を提示した上で引き受けたのですからたいしたものです。ハラが据わっているんですね。
この時の主君に対する“訴訟”を皮切りに、恩田木工は自らの財政改革を貫徹させるために、家内一門の引き締めから着手します。
まず、親類を残らず集め、“向後(きょうご)義絶なされ下さるべく候。”(今後、親族の関係をお絶ち下さい)と申し入れ、妻子、家来共残らず召し呼び、
(このたびの役目を仰せつかったために、妻は離縁するので親もとへ帰ること。子供達は勘当するのでどこへなりとも行くこと。家来共は解雇するので新たな奉公先を決めること。)
と申し渡します。
一方的に申し渡された人達にとっては、青天の霹靂(へきれき)、何のことか分からずパニックに陥ってしまいます。当然のことでしょうね。
ここから先は、まるでドラマのような展開がなされていきます。恩田木工が巧みに一族身内をまとめあげていく力量は並のものではありません。
当時、松代藩だけでなく全国的に藩財政は窮迫の度合いを深めており、各藩はそれぞれのやり方で財政改革を行なっています。
しかし、財政改革といえば、必ずや利害得失が激しくぶつかり、家臣の間で争いが起ったり、百姓一揆を惹き起こすのが普通でした。実際に、この松代藩においても、何回か財政改革に手を着けているのですが、足軽のストライキが起ったり、あるいは百姓一揆が発生したりしています。
ところが恩田木工の改革はそのようなトラブルが生ずることなく平穏のうちになされました。困難とされた改革事業がスムーズになされたのは何故か。それはひとえに、現状を適確に把握し、その認識をもとにして藩財政のあるべき姿を構築し、現実に実行することができるプランを領民に提示することができた行政マンとしての卓越した力量によるものです。
「日暮硯」が江戸時代から注目されており、折に触れて多くの人々に読みつがれてきたのは、候文(そうろうぶん)でありながら平易に書かれており読み易いことに加え、改革が日常的に要求される人達、たとえば政治にたずさわる者、あるいは企業の経営者にとって実践的な指針を与える格好の教材であったからでしょう。
木工独自の改革を進めるにあたって、まず自らを律し、身近な親族身内を堅めたうえで、藩全体の改革に乗り出したのは、“隗(かい)より始めよ”の手本となるものだったのです。
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ここで一句。
(杉浦日向子さん死去。享年46歳。江戸の文化と風俗に没入し、江戸をとことん愛し、楽しんだ人。現代における江戸の華が美しく散った。ソバ好きの彼女と、自慢の出雲ソバをご一緒し、江戸の話を伺いたかった。合掌。)
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