097 書写と古代幻視
- 2005.05.17
- 引かれ者の小唄
***4.書写と古代幻視
一、 平成8年2月5日、逮捕11日目のことであった。廊下でゴロゴロ音がして何かが独房の前に運ばれてきた。官本であった。3冊を限度に貸し出すという。
見れば、台車に乗せられ三段に仕切られた小さな本箱の中に、100冊位の本が並んでいる。
検視窓越しに背表紙を見る。早く早くと急かされるのでゆっくり吟味する暇がない。
とくに読みたい本はないが、私本の房内所持が3冊に制限されているため、本であれば何でもという気持で、いいかげんに官本3冊を選ぶ。
二、 3冊の中に、たまたま山本夏彦のエッセー集「ダメの人」(文芸春秋刊)があった。親しくしている高庭敏夫会計士が、常日頃愛読している作家の一人が山本夏彦であった。
三、 その中の「写し」というエッセーで、作家は自らの体験をふまえて、文章を書き写すことの意味合いを説いている。書写の勧めである。
四、 この文章に接して、私は急に手許にあった万葉集を書き写したくなった。当初、私の勾留は長くとも1ト月位であると考えていたので、退屈しのぎに、気に入った歌を適当に選んで書き写してみようと思ったのである。
五、 2月5日、午睡時間を早めに切り上げて、フトンをたたみ、座り机に向った。
初めに書き写したのは、その時の私の心境をそのまま表現している大伴家持の歌であった。巻第17の歌番号3978の「恋の緒(こころ)」を述べたる歌」である。
・・・近くあらば 帰りにだにも 打ち行きて 妹が手枕(たまくら) 指し交(か)へて 寝ても来ましを・・・思ひうらぶれ 門に立ち 夕占(ゆふけ)問ひつつ 吾(あ)を待つと 寝(な)すらむ妹を 逢ひて早見(はやみ)む ”
六、 私を取り調べた中島行博検事は、「否認を通すのであれば、保釈は認められないだろう。いったん認めておいて、法廷で否認すればいいではないか。早くシャバに出て、仕事のあと片づけをしたらどうか。」と、私にしきりにもちかけ、嘘の自白を促していた。
私は検面調書の特信性を知悉していたので、中島の偽りの申し出を無視した。
そのためであったろうか、私は起訴後も保釈されることなく、勾留されつづけたのである。
七、 初めのうちは軽い気持で万葉集を書き写していたのであるが、なかなか保釈されないので、途中から本腰を入れて書き写すことにした。
そのうち、退屈しのぎが退屈しのぎでなくなってきた。万葉の世界に没入するにつれて、面白くなってきたのである。
八、 平成8年4月12日のノートには、 ―
― 、と記されている。
更に、4月20日のノートに、 ―
― 、と記す。
九、 万葉の世界が、私の少年時代の原体験と重なって、独房の中に入ってきた。時間と空間とを超えて次々と展開される絵巻物が私を圧倒した。
セピア色といったあいまいなものではなく、鮮やかな原色の映像が私を魅了し、時間が経つのを忘れさせてくれた。
一〇、気がついたら、万葉全20巻4500首余り全てを書き写していた。
平成8年5月29日の獄中ノートには、次のように記されている、 ―
全20巻 読解完了、H8.5.29 p.m.7:40頃」
一一、平成8年5月31日、午後1時30分、風呂上りに、出雲国風土記の書写を始めた。同年6月9日、午後7時すぎ、書写完了。
一二、平成8年6月12日、肥前国風土記の書写を始め、同年6月15日午前10時半頃、書写完了。ホトトギスがしきりに鳴いていた。
一三、平成8年6月15日、豊後国風土記の書写を始め、その日の午後7時40分頃、書写完了。翌16日の午後4時すぎ、解読完了。
一四、平成8年6月17日、常陸国風土記の書写を始め、同年6月24日、午後3時頃、書写完了。同年6月30日、午後3時頃、解読完了。
一五、平成8年6月30日、播磨国風土記の書写を始め、同年7月26日、午前9時頃、書写完了。同年8月24日、午前11時40分頃、解読完了。
一六、その後、9月の終り頃まで、改めて、五つの風土記を読み返し、岩波古語辞典と学研の漢和大辞典を用いて字句の確認を行った。
一七、書写と並行して、古事記、日本書紀及び日本霊異記を読んだ。
中でも、日本書紀と日本霊異記については、本の差入れではなく、コピーを差入れてもらうことによって、読み進めた。房内所持が3冊と限定されていたために、所持が不可能であったからである。
その反面、本のコピーの差入れは無制限であった。ただし、房内所持は、差入れの一日だけであり、翌日まで持ち越すことはできなかった。
このため、日本書紀と日本霊異記については、一日で、といっても事実上3時間位で、読みかつ要点がメモできる範囲の量だけコピーの差入れをしてもらっていた。
それぞれ岩波、日本古典文学大系本の20ページ位、見開きにしてB4版10枚位が毎日差入れられた。
時間がくれば、いやおうなく房内から引き上げられてしまうため、まさに時間との戦いであった。
一八、日本書記は漢文体の史書である。漢文体については、漢籍から借用している部分は比較的難しかったものの、地の文は平易なものであった。
しかし、読み下し文は独特のものであり、当初なかなかなじめなかったが、次第に慣れてくると面白くなってきた。
古訓という、多分に奈良時代の読み方を踏襲した読み下し文で、平安時代の初めから1000年以上にわたって読みつがれてきたものである。古代の日本語が、古訓の中にしっかりと息づいていた。
私の中で、日本書紀の古訓を通じて、万葉集と風土記とがオーバーラップしてきたのである。
一九、書写と読書の日々は、私が日本の古代に遊んだ日々であった。独房内の現実の時間は、はるかな古代に飛翔し、一日が一瞬のうちに過ぎ去っていった。古代幻視、 ― 全く退屈することなく過ごすことができたのは、このためであった。
保釈されてから8年になるが、日本書紀は、文字通り、私の座右の書となって現在に至っている。
眠る前のひととき、日本書紀を読むことが多い。睡眠導入剤の役割を果しているようである。
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