086 立石英生
- 2005.03.15
- 冤罪を創る人々
*(3) 立石英生
一、 大阪地方検察庁堺支部検事。第一審の主たる公判検事。第一審の33回にわたる公判廷のうち、第11回、第20回及び第33回以外の全ての公判廷に、検事として出廷。
中央大学法学部卒。山根会計事務所の職員小島泰二氏を逮捕し、尋問を担当。
二、 平成8年1月28日付で始まり、同年3月17日付で終る立石英生の作成になる小島氏の供述調書は13通である。
小島氏は、組合担当の職員ということで逮捕勾留され、私を突き崩すための重要な人物として、他の被疑者もしくは参考人とは違った取調べが、立石英生によってなされた形跡がある。
三、 小島氏は山根会計事務所の古参の事務職員で、私が全面的に信頼していた人物であった。一流私立大学を出て、人柄もよく、仕事もよくできたからである。
その小島氏が逮捕され、立石英生の取調べを受けてから全く別人になってしまった。
私は当初、小島氏が逮捕されたショックによるものと考えていたが、それだけではどうにも説明のつかないことがいくつもあり、腑に落ちない思いを抱きつづけてきた。
四、 この度私の10年間を客観的に見つめ直すために、裁判関連の資料をじっくりと読み直したところ、今まで気がつかないことがいくつか分かってきた。
その結果、小島氏が私にとって別人のようになってしまったのは、逮捕という衝撃の他に、立石英生が小島氏に対して通常では考えられないことを仕掛けたからではないかと考えるに至った。
五、 小島氏は平成8年1月26日、別件で立石によって逮捕され、40日間の尋問を受けた。その後、釈放され、本件では立件されることなく、在宅のまま初公判に臨んでいる。
その間、立石は小島氏を脅し、なんらかの取引を持ちかけたのではないか。あるいは、小島氏がなんらかの行動をするように仕向けたのではないか。私の疑念は、ほとんど確信に近いものとなった。
六、 しかし、確信したと言っても、直接小島氏に問い質し、確認した訳ではない。保釈中は、事件関係者との接触は禁じられており、この保釈条件を破ると再び収監されるおそれがあったため、一切小島氏とは直接話をしたことはなかった。又、裁判が終了してからも、小島氏に対して強い不信感を抱くことになったため、一切の接触をしていない。
従って、小島氏と立石検事との間で、拘置所内という密室でいかなるやりとりがあったのかは、私の推測の域を出るものでない。
このため、立石検事が密室の中でどのようなことを小島氏に対して仕掛けたのかについての憶測は差し控え、供述調書と法廷調書のみにもとづき、小島氏の真意からはるかにかけ離れた偽りの自白が、どのようにして供述調書の上でなされたのか明らかにする。
七、 「供述調書の足跡その1」
立石が作成した小島氏の供述調書において、まるで別人格ともいえる小島氏が登場する。
まず、私を呼び捨てにしていることが注目される。
平成8年1月28日付の第一回目の供述調書において、小島氏は、わざわざ「以下、山根公認会計士のことは、言い慣れているので“山根所長”と呼ばせていただきます。」と言っていながら、それ以後の供述調書では一転して「山根」と呼び捨てにしている。
私は小島氏の上司であるだけでなく、ひと回り近くも年が上である。元来、小島氏は全ての人に対して長幼の序を弁えている礼儀正しい人物であった。それが逮捕という異常事態にあったとはいえ、余りにも不自然である。
不自然な印象が拭い切れなかったため、何回か調書を読み直していたところ、あることに気がついた。
小島氏の供述調書の初回は、同年1月28日付であるのに、第2回目は、同年2月10日付になっているのである。ここに12日間の空白がある。
この間小島氏は、私と同様に松江刑務所拘置監に勾留されており、連日のように立石英生から取調べを受けていたはずだ。12日間もの間供述調書が作成されていないはずはない。不自然である。
何通かの供述調書が作成されたものの、法廷に開示されることなく隠匿されたのではないか。その中では、私のことを「山根」と呼び捨てにしないで、「山根所長」と呼んでいたのではないか。この12日の間に、立石は小島氏にたっぷりと毒を吹き込み、洗脳作業を行なっていたのではないか。
八、 「供述調書の足跡その2」
次に私に対する印象について、にわかには信じ難いことを供述している。
小島氏は、同年1月28日付の供述調書において、昭和54年9月ごろ山根会計事務所の職員採用に際して、私と初めて面談したときの印象について次のように述べている、 ―
その当時、私は37才であり、開業して3年しか経っていなかった。小島氏は27才、私より十歳年下であった。
この供述調書が拘置監の房内に差し入れられ、眼を通したとき、私は気分が悪くなり、嘔吐を催しそうになった。全幅の信頼を置いていた小島氏が、私に対してこのような見方をしていたことが私を打ちのめしたのである。
「若いくせに生意気な感じ」を本当に小島氏が抱いていたとすれば、その後の私とのつきあいは、猫をかぶった虚飾に満ちたものとなる訳で、私の頭は混乱し、収拾がつかなくなった。
しかし、ここに立石英生によって悪意に満ちた囁きがなされていたとするならば、それなりに納得できるのである。
九、 「供述調書の足跡その3」
小島氏は、同年2月10日付の供述調書で、吉川春樹と佐原良夫の両人について次のように述べている、 ―
それで、そのような得体の知れない吉川やその仲間である佐原などという男と、単なる顔見知りというだけにとどまらず、仕事上のつき合いをするなどしておりましたので、私から見れば、吉川や佐原は付き合うのを避けるべき人種の人達のように思われました。」
小島氏は吉川、佐原両名との接触はほとんどなく、このような考えを持っているはずがない。私は当時、両名を全面的に信頼していたので、仮に小島氏が私から両名の情報を得ていたとしても、「山師」というイメージを抱くことはまず考えられないことである。
私がいかに怪しげな人物と接触し、怪しげな取引をしたのか、小島氏に語らせているのは、間違いなく立石英生であった。しかも、投資ジャーナルの中江滋樹氏のことまで持ち出す念の入れようであった。
一〇、「供述調書の足跡その4」
仮装売買が焦点とされた本件について、小島氏は一部事務的なことに携ったものの、核心に触れる部分については全く知る立場になかった。
それにも拘らず、小島氏は供述調書の中では、微に入り細にわたって仮装の核心について語っているのである。全て検察のシナリオ通りであった。
本件が無罪となった場合に備えて用意された別件についても同様であった。
小島氏は他の被疑者と異なり、別件に関しては私から直接指示を受けて実行した本人であるだけに、別件について最終的に無罪を勝ちとることができなかった最大の原因は、小島氏による偽りの自白であると言っても過言ではない。虚偽の自白をたくみに誘導したのは、立石英生その人であった。
一一、「供述調書の足跡その5」
公正証書原本不実記載に問われた農地の登記について、小島氏は次のように虚偽の自白をしている、 ―
しかし、私とすれば、登記申請段階で、そのような事情は分かっており、けっして正しいやり方だとは思っておりませんでしたが、このようなやり方は希有なものではないと思っていたことと、山根の指示があったことから、今お話しした処理をしたのです。」
― 平成8年2月21日付、供述調書
更に、同じく賃借権の仮登記について、小島氏は次のように虚偽の自白をしている、 ―
― 同年2月13日付、供述調書
一二、立石英生の作成になる小島氏の供述調書は、私を犯罪人に仕立てあげることを目的として創られた虚偽のものであり、悪意に満ちたものである。今の時点で読み返してみても、気分が悪くなる程だ。調書からは、悪意の吹矢が今なお放射され続けており、鏃に仕込まれた毒素が私の体内を還流するからであろう。
一三、「法廷での供述 ― 呪縛からの開放その1」
立石と小島氏との間で何らかの取引がなされたことは、法廷における二人の話のやりとりと微妙な雰囲気とによって推測することができた。
小島氏は、平成9年6月3日の第16回と同年6月17日の第17回の公判廷において、被告人として証言台に立ち、立石英生と弁護人との質問に答えている。
小島氏の供述調書が偽りの自白に満ちたものであったため、被告人弁護側はそれを法廷の場で訂正すべく、小島氏に問いかけ、小島氏は法廷では真実の供述に終始した。釈放されて一年以上もたっており、立石英生のいわば悪魔の呪縛から解き放たれたからであろう。本来の小島氏が甦ってきたのである。
これに対して、立石英生は、ときには色をなして怒り、ときには猫なで声でさとしながら問いかけたものである、 ―
それなのにどうして今になってそんな違ったことを言うんですか。一体どうしたというんですか。」
立石英生は、法廷における速記録では、以上のような紳士的な質問をしたことになっている。
しかし、私は被告人席で、立石英生と小島氏との実際のやりとりを至近距離で見つめていたのである。
弁護人が小島氏から次々と真実の供述を引き出すたびに、検察官席にいる立石は、思わせぶりな溜め息をついたり、舌打ちしたりして、供述している小島氏にしきりに圧力をかけていた。立石のボディ・アクションは見事なもので、その度に余り気の強くない小島氏は、落ち着きを失い、弁護人に助けを求めるしぐさをした。呪縛の残渣が完全には払拭されていなかったのであろう。
しかし、立石が懸命に試みた呪縛のフラッシュ・バックは、法廷では実ることなく徒労に終った。
一四、「法廷での供述 ― 呪縛からの開放その2」
別件での農地の登記については、法廷では松原弁護人の質問に答えて、小島氏は一転して供述調書を否定し、全く異なる真実の供述をしている、 ―
小島:「疑問に思いませんでした。」
松原:「なぜ疑問に思わなかったんでしょうか。」
小島:「少なくとも財産を処分しなくちゃいけないということは、これははっきりしたことでした。で、山根先生はいわゆる農業者じゃありませんから、直接移転することははっきり言って、ものの処理上できないと、これも分かっておりました。で、できないもんですから、農業者の岡島さんにお願いをしたということなので、そのことがものすごく大変なことというのは全然思っていませんでした。」
松原:「所長(山根)が持てないので、組合財産を処分する上において、組合長の岡島さんにとりあえず持ってもらうということだから、何の疑問もなかったと、こういうことですかな。」
小島:「はい。」
― 平成9年6月3日、第16回公判、速記録
一五、「法廷での供述 ― 呪縛からの開放その3」
別件の賃借権の仮登記についても、法廷では検察官立石英生の質問に答えて、小島氏は一転して供述調書を否定し、全く異なる真実の供述をしている、 ―
小島:「全く意識していません。」
立石:「意識していない。」
小島:「はい。」
立石:「どういう問題があるんですかというふうに、A.I(司法書士)さんのほうに聞かれたこともない。」
小島:「聞いてません。」
立石:「ここまで大きな問題になるとも思っていなかったということになるのかな。」
小島:「全く思ってません。」
― 同年6月17日、第17回公判、速記録
一六、検事立石英生にとって、所詮刑事裁判とは仁義なき戦いであり、どのような不正かつアンフェアな手段を弄してでも、勝てばよいといったゲームでしかなかった。広域暴力団とどこが異なるというのであろうか。
暴力団は、不法なことをすると罰せられることを常に意識しているのに対して、立石を含む一部の検察官は、いかなる不正なことをしようとも絶対に罰せられることがないと高をくくっているわけで、この点、暴力団よりもたちが悪い存在であると言えようか。
社会正義という能面をかぶったこの人達は、偽りの素顔が世間に露呈されることなく、法曹界という極めて狭い陰湿な空間の一部で、今後とも隠花植物の如く増殖を続けていくのであろうか。