080 前門の虎、後門の狼

*(カ) 「前門の虎、後門の狼」

1. 平成8年2月24日、逮捕30日目のことであった。

中島は、一つの熟語を持ち出し、どうだ参ったか、と言わんばかりに私に向き直った。私を攻めあぐんでいただけに、自分に活を入れようと思ってひねり出したもののようであった。

中島:「今の山根は、いってみれば“前門の虎、後門の狼”ってところだな。ま、いずれにしても逃げ道がないってことだ。」
山根:「それはまた、どういうことですか。」
中島:「前門には仮装売買という虎がおり、後門には公正証書原本不実記載という狼がいるってことだ。虎から逃げることができたとしても、ちゃんと狼が控えてるって寸法だ。」
山根:「つまり本件は無罪となっても、別件で有罪になれば、資格に傷がつき会計士として仕事ができなくなることでは同じだというんですか。」
中島:「ま、そういうことだ。」

2. およそ漢籍の素養など想定できない中島の口から、いまどきめったに耳にしない熟語がでてきたのには、驚いた。
この日以後も、何回か中島の口からこの言葉が繰り出された。常日頃余り縁のない言葉を、自らの仕事の現場でうまい具合に使うことの出来たことで得意になっていたのだろう。

3. 山根:「中島さん、あなたは“前門の虎、後門の狼”とおっしゃいますが、もしやそれは、“前門の熊、後門の猫”の間違いではありませんか。」
中島:「え?なんだって?そんな言葉が本当にあるのか。」
― 中島、少し慌てている。単純明快な人柄が、もろに現われた。

山根:「いや、いまひょっと思いついたんですよ。」
中島:「・・・。へんなこと言うんじゃない。」
― 何故か、中島怒っている。

山根:「なにもへんなこと言ってはいませんよ。」
中島:「それはどういうことなんだ。」
山根:「私にとっては、本件こそが重要なんで、別件なんて本件に比較したらどうでもいいことです。
仮に本件があなた達の陰謀通り有罪になってごらんなさい。私を含めた10人以上の人達が、破産に追い込まれることになってしまい、眼もあてられない。私だけならまだしも、私を信頼してついてきてくれた組合の人達まで、そんなことに巻き込んでしまっては、私としては死んでも死に切れない思いがするでしょうよ。」
中島:「しかし、別件とはいえ有罪になれば、会計士の資格が駄目になってしまうんじゃないか。」
山根:「そうでしょうね。しかし、それは私一人のことで他の人達には関係のないことです。
もともと会計士の資格なんて、メシを食うためにやむなく取得したものだ。長年この資格によってメシを食わせてもらってきたんだから、未練がないと言ったら嘘になるが、それほどのものではない。
私だけでなく、多くの人達が破産の憂き目に会うことを思えば、会計士の資格なんて屁のようなものだ。」
中島:「やけに強がっているが、本当にいいのかな。」
山根:「いい訳ないでしょうが。あくまで比較の問題だ。
私にとって、全体を100%とした場合、本件のウェイトは99%位で、別件は1%位のものだ。
ところで、さきほど、前門の熊と言ったのは、中島さん、実はあなたのことなんですよ。」
中島:「なんだって。」
― 中島が目をむいた。また怒っている。

山根:「そのあなたが、ああでもない、こうでもないと言って議論をふきかけてきて、強引に私をねじふせようとしてきたのは、もっぱら本件の仮装売買のことであって、別件のことなんて、ほとんど二人の話題にのぼってないじゃないですか。」
中島:「・・・。」
山根:「だから、前門で私を脅しあげているあなたさえ退治すれば、後門には何がいようとどうでもいいことなんです。後門にドラ猫でもいて私に歯向かってきても、せいぜい私の顔を爪でひっかく程度が関の山だ。命に別状はない。
私が思いつきで、“前門の熊、後門の猫”と言ったのは、ま、このような意味合いと思って下さい。」

4. “前門の虎、後門の狼” ― 中島が勝ち誇ったように何度となく私に申し向けたこの言葉は、検察の、いわば敗北宣言であった。
中島は私を取調べたかなり早い段階で、私の供述に嘘がないことを知り、検察が組織をあげて構築した断罪のシナリオが虚構であることを十二分に知っていたのである。
本件では負けるかもしれないが、別件で私の息の根を止めてやる、 ― はからずも犯罪集団の一員に加わってしまった中島のせめてもの虚勢であり、敗北宣言にも等しい、引かれ者の小唄であった。

 

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