冤罪を創る人々vol.45
- 2005.01.18
- メールマガジン
2005年01月18日 第45号 発行部数:318部
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「冤罪を創る人々」-国家暴力の現場から-
日本一の脱税事件で逮捕起訴された公認会計士の闘いの実録。
マルサと検察が行なった捏造の実態を明らかにする。
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山根治(やまね・おさむ) 昭和17年(1942年)7月 生まれ
株式会社フォレスト・コンサルタンツ 主任コンサルタント
http://www.mz-style.com/
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●(第六章)権力としての検察 ― 暴力装置の実態
「2)経歴」より続く
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3) 尋問
一、 検察官中島行博による本格的な取調べが始められたのは、平成
8年1月28日、午後1時からであった。松江刑務所管理棟の一室
である。
看守に連行されて部屋に入ると、正面に中島が窓を背に座ってお
り、左横に渡壁将玄書記官がノート・パソコンを前にして控えてい
た。
私は、中島に向き合った机に席を与えられた。部屋には暖房が全
くなく寒くて仕方ない。中島に対して暖房を要求したところ、中島
の指示によって石油ストーブが入ってきた。
中島:「昨日あんたが、検察は暖かいところで仕事をしていて、被疑
者は火の気のないところへ放り込むのか、と文句をつけたので、そ
れではお互い同じ条件でやろうと思って、敢えてストーブを入れて
もらわなかったんだ。私は寒さに強いんでね。」
― そうだろう、90㎏はある熊のような大男だ。ヘンなことに気を
つかって意気がっている。
二、 中島の取調べは、マルサと検察が勝手に創り上げたストーリー
に沿ってなされ、その意味では典型的な誘導尋問であった。
中島の私に対する尋問は、手許にある正式な記録の上では、平成
8年1月28日付に始まり、同年3月4日付で終わる45通の検面
調書に残されている。
面妖としか評しようのない尋問の連続であり、これらを称して起
訴状を書いた藤田義清と公判を担当した立石英生の二人の検察官が
「禅問答」と評したのは、ある意味で正鵠を射ている。
たしかに、中島行博は、若くして奥義を極めた禅の高僧であった
に相違ない。
三、 中島の取調べはほとんどが雑談に費やされた。取調べ終了の予
定時刻が近づくと、中島は「さあ、少しは仕事もしなくっちゃ」と
か言いながら腕まくりをし、背スジをピンと伸ばし、禅僧にヘンシ
ンしていった。それまでのふくれた顔がいくぶん引き締まり、心な
し声色も変わっていった。熊が禅僧に変身するのである。変態であ
る。
四、 中島は、当初私の経歴とか、組合に関与していった経緯などを
問いかけてきた。この段階は普通の尋問であって、禅問答ではなく、
目の前にいるのは単なる検察官中島行博であった。
ところが、事件の核心にふれる部分に至るや、中島の問いかけが
一変した。同時に禅僧への変態が始まり、事実に反することを前提
とした絵空事が空念仏さながら展開されたのである。
五、中島は、古式禅問答にはとても見出せないような珍妙な問いを発
し、私に答えるように促した。
私は答える前に、念のため次のように問いかけてみた。
山根:「あなたは今、面白い問いかけをなさったんですが、私は自分
の思った通りのことをしゃべってもいいんでしょうか。」
中島:「もちろんいいですよ、いやそうしてもらわないと困る。」
山根:「ただ、私の正直な気持を微妙なところまで表現するためには、
私のネイティヴ・ランゲージを使ってお答えするのが一番なんです
がね。それでいいでしょうか。」
中島:「ネイティヴ・ランゲージ?それは何のことだ。」
山根:「いやなに、出雲弁のことですよ。」
中島:「出雲弁?」
山根:「はい。」
中島:「どういうことなんだ。」
山根:「私、普段仕事をする場合に出雲弁が分らない人が多いために、
やむなく慣れない標準語を使っています。たしかに、単なる意思の
伝達ということでは、標準語で十分です。
しかし、気持の微妙な綾までは伝えることはできないんです。」
中島:「オレも出雲弁なんてはじめてだが、とにかく話してみてくれ。」
山根:「ではお言葉に甘えて。
“だらくそ、よもよも、そぎゃんだらつけたことええたもんだわ。
そげなこと、しんけでもえわんわね。だらか。ほんにせえたもんだ
わね。どげん答えてええか分らんがね。”
中島:「・・・なんだ、それは。」
山根:「あなたの問いに対する私の素直な気持を、子供の頃から慣れ
親しんだ正統出雲弁で話すとこうなるんですよ。」
中島:「どんな意味なんだ。」
山根:「標準語に翻訳いたしますと、 ―
“アンポンタン、よくもそのような訳の分らない理不尽なことが言
えたものだ。そんなこと、気狂いでもいわないだろうよ。アホか、
すっとこどっこい。どのように答えたらいいのか分からないじゃな
いか。”
― 位の意味でしょうかね。
(続きはWebサイトにて)
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●山根治blog (※山根治が日々考えること)
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「倉田まり子事件の真相 -その2」より続く
http://www.mz-style.com/item/208
・倉田まり子事件の真相 -その3
中江滋樹氏については、服役後、いくつかのマスコミが思い出し
たように、「あの人は今」のような形で取り上げています。一方的
な興味本位のアングルからの報道ではありましたが、中江氏自身が
倉田まり子さんについて語ることはなかったようです。マスコミに
対する不信感が大きかったのでしょう。
今は亡き(と私は思っていますが)中江氏のためにも、あるいは
現在芸能界を引退して家庭の一主婦におさまっている(と私は思っ
ています)倉田まり子さんのためにも、中江氏の生の声を紹介する
ことにします。
中江氏が逮捕されて東京小菅(こすげ)の拘置所に収監されてい
るとき、私達は、頻繁に手紙のやりとりをしていました。大半が、
進行中であった刑事裁判の、特に経理数字に関連する打ち合わせで
した。その合い間に、両親とか、幹部社員など、中江氏が気にして
いる人たちについても、しばしば言及がなされていました。
倉田さんについても、申し訳ない気持ちが滲み出るような文面が
残っています。
「 今回の、最大の被害者の一人が、彼女だと思います。大切な、さ
あこれから、芸能人として、開花しようとする時に、私の事件にま
きこまれ、マスコミにボロボロにされてしまったわけです。彼女に
は何の罪もありませんでした。・・・
・・・・・・
本当に申し訳なく思っています。自由になった時には、この償い
をしなければいけない人の一人だと思っています。」
(昭和61年6月4日付手紙より)
この手紙は便箋10枚にも及ぶ長いもので、倉田さんの件に関し
ては、テレビ朝日のM専務が関係するプロダクションがどのように
かかわっていたのか詳しく記述されており、中江氏の無念の気持ち
がうかがえます。
中江氏は釈放後、倉田さんに会ったかどうか分かりません。ただ、
手を尽くして倉田さんを捜し出して会おうとしたらしいのですが、
倉田さんが会うのをかたくなに断ったと聞いています。
どのような事情があろうとも、訳の分からないままに悪役に仕立
てられて、人生をメチャクチャにされたのですから、倉田さんとし
ては当然のことだろうと思います。
私は30年の会計士生活の中で、何人かの芸能界の人達と接する
機会がありました。しかし、人間としての印象がいい人にはあまり
出会うことができませんでした。
ブラウン管から受けるイメージと、実際の人物との落差が大きす
ぎる人がほとんどで、芸能人は男でも女でも、できることならあま
り会いたくない人種に属していたのです。
倉田さんについては、中江氏のことがあるまでは、全く知りませ
んでした。メジャーではなかったし、私が芸能界にあまり関心がな
かったからでしょう。
初対面のとき、私は意外な思いをしたことを覚えています。芸能
人特有の華(はな)は感じられたものの、いわば芸能人臭といった
ものがないタイプの人でした。
お母さんと妹さんが同席し、中江氏を含めた5人の会合は東京プ
リンスホテルの一室でもたれたのですが、言葉の端々にお母さんと
妹さんに対する思いやりが感じられ、それまでの人生を母娘3人肩
を寄せ合って生きてきたことが感じられたのです。
私自身が戦争未亡人の母によって育てられた経験があるだけに、
他人事とは思えませんでした。
その後、中江氏が同席することはありませんでしたが、倉田さん
は一度も中江氏に対する恨みがましいことを口にしたことはありま
せん。
真正面から人生を懸命に生き抜こうとしていた彼女のイメージは、
20年経った今でも消えることなく、私の脳裡に残っています。
―― ―― ―― ―― ――
ここで一句。
“偽物に感動した瞬間(とき)底が割れ” -秦野、てっちゃん。
(毎日新聞:平成16年8月26日号より)
(偽物ではない本物、偽りの仮面ではない真の人間、出会ったときの
喜びは格別のものですね。)
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