056 公判検事 立石英生
- 2004.10.28
- 冤罪を創る人々
*(イ)公判検事 立石英生
一、 第一審は、平成8年5月7日の第1回公判を皮切りに、平成10年10月15日の第32回公判で結審し、平成11年5月13日の第33回判決公判で幕を閉じた。
公判廷の傍聴席には、常に2人のマルサの姿があった。黒っぽい背広を着用しネクタイを締めた、おきまりのドブ鼠スタイルである。
二、 検事立石英生は、第一審の33回に及ぶ公判廷に、平成9年2月18日の第11回公判、同年8月12日の第20回公判及び平成11年5月13日の第33回公判以外の全てに公判検事として出廷した。
三、 私は、被告人席から立石英生という人物を具さに観察した。
背が低く小太りの立石英生は、おもむろに検事席から立ち上がり、下腹を少しつき出すようにして証言席に近づき、ヘラヘラした口調で尋問をし、身体を大きく見せようとするためであろうか、肩をゆするクセがあった。
被告人とか弁護人に食ってかかるときには、きまって声が甲高くなり、口唇が突出し、ひょっとこさながらの顔付きとなった。
私は、立石英生にコメディアン検事なる肩書きを付与することにした。
四、 コメディアン検事立石英生が、刑事法廷でヘラヘラと支離滅裂なことをしゃべり始め、私は被告人席から覚めた視線で立石の道化芝居を冷ややかに見つめていた。法廷で演じられたのは、喜劇であると同時に悲劇であった。
荒唐無稽な言葉が繰り出されることから喜劇であり、マルサに繰られる道化であることに本人が気づいていないことから悲劇であった。
私の中では、立石英生に対する憎悪の感情が次第に薄れ、憐憫の情が支配するに至った。私は法廷という劇場で、立石英生が演ずる悲喜劇を冷徹に見つめていたのである。
五、 立石英生は法廷に多くのものを証拠と称して持ち出してきた。しかし、それらは全て検察のストーリーに都合のよい証拠ばかりであり、都合の悪い証拠は隠しているらしいことが判ってきた。
とくに、供述調書(検察官面前作成調書 ― 検面調書)のかなりの部分が法廷に開示されておらず、検察の偽りの主張を突き崩すためにも開示が必要であった。
六、 平成9年2月18日、中村弁護人は、開示されていない9人の供述調書の開示を求めて、証拠開示の請求を松江地裁に対して行なった。
同年5月6日、同年2月18日付の開示申立について、裁判所は職権発動をしないとして、却下した。
七、 平成9年12月2日、中村弁護人は、再度証拠開示の請求を行なった。このたびは、とくに必要な2人の供述調書にしぼって行なったのである。
同年12月16日、長門栄吉裁判長は検察官に対して証拠開示の勧告をした。
平成10年1月13日、勧告に従って立石英生は、弁護側が請求した証拠を開示した。不承不承であった。
八、 立石英生は、2回にわたる弁護側の証拠開示請求に対して異議を唱え、平成9年3月3日付、及び同年12月2日付の意見書を松江地裁に提出している。
立石は、2つの意見書で、現行刑事訴訟法における当事者主義を形式的にふりまわし、
『“何か有利な証拠が見つかるかも知れない”程度の漠然たる期待のもとに検察官手持ち証拠の開示を求めることは典型的なフィッシング・エキスペディションとして許容されるべきではない。』
として、裁判所の訴訟指揮権を発動すべきではないと申し立てた。
立石は刑事裁判を単に勝敗のみを競うスポーツかゲームのように考えていたようである。
しかも、同じスポーツでもスポーツマンシップを基本とするスポーツではなく、ゲームについても、フェアなルールにもとづいたゲームではなく、どのような不正な手段を用いてでも単に勝てばよいといった類のスポーツであり、ゲームであったようだ。
九、 立石は、フィッシング・エキスペディションという片仮名がよほどお気に入りのようで、4回も繰り返し使っている。ちなみに、フィッシング・エキスペディションとは、証拠あさりという程の意味合いのものであろう。
立石は意見書の中で、四の五のと屁理屈をこねまわしているが、要は、何としてでも隠したまゝにしておき、法廷に出したくないのである。
立石英生を支配していたのは、正義の砦たる検察官としての矜持でもなければ、真実を追求する検察官としての秋霜烈日の精神でもなかった。
自らが捏造した虚構のストーリーを何が何でも法廷で貫徹させるために、必死になって足掻いている姿は、哀れとしか言いようのないものであった。
一〇、立石英生が隠匿していた供述調書は、26通にも及ぶ大量のもので、その内容も驚くべきものであった。稿を改めて、「検面調書、その詩と真実」及び「その他検察官言行録」で詳述する。
一一、立石英生は、中央大学法学部出身である。中央大学法学部といえば、数多くの優れた法律専門家を輩出している名門だ。
司法試験を目指して勉学に励んでいたときの立石英生は、真面目な学徒として理想に燃えていたことであろう。
公判検事として私の前に現れた立石英生と、純粋であったに相違ない法律を学ぶ学徒としての立石英生とのイメージ落差は余りに大きく、私は唯とまどうばかりであった。