冤罪を創る人々vol.24

2004年08月31日 第24号 発行部数:238部

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 「冤罪を創る人々」-国家暴力の現場から-



    日本一の脱税事件で逮捕起訴された公認会計士の闘いの実録。

    マルサと検察が行なった捏造の実態を明らかにする。

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 山根治(やまね・おさむ)  昭和17年(1942年)7月 生まれ

 株式会社フォレスト・コンサルタンツ 主任コンサルタント

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●(第六章)権力としての検察 ― 暴力装置の実態



「(1) 逮捕直前」より続く

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(2) 逮捕当日 ― 別件逮捕 ―



一、 平成8年1月26日、朝6時50分、自宅のチャイムが鳴った。

 私は寝ているところを起された。

  中島行博検事が、逮捕状を携えてやってきた。副検事と事務官を

 従えている。

  窓の外には、7人位の連中が、家宅捜索のために待機していた。

 

二、 三人が応接間に入ってきた。中島検事は、私に逮捕状を呈示し

 て、次のように言った、 ―

「近所の手前もあるだろうから、逮捕は自宅ではなく、地検で行なう

 ので、出かける用意をするように。」



三、 私は中島検事から逮捕状を受けとり、目を通してみた。

 「罪条、公正証書原本不実記載・同行使」となっている。

 私は、一瞬、何のことか分からなかった。手が震え、顔から血の気

 が引いた。



四、 午前7時、私は検事の許可を得て、中村寿夫弁護士に電話を入

 れた。

  検事が逮捕状をもって自宅にきたことを告げ、逮捕容疑が私の理

 解を超えるものであることを説明した上で、弁護人になってもらう

 ことを要請した。

  中村弁護士は電話口で、エーッと絶句し、別件逮捕だと言いなが

 ら、弁護人を引き受けてくれた。



五、 私はカメラをとり出して写真を撮ろうとしたところ、中島検事

 が「撮るな。肖像権がある。」と大声を出して止めに入った。私は

 妻を呼び入れて、「4人の記念写真をとりたい」と申し入れたが、

 どうしても許可してくれなかった。

  それではと、応接間にあったテープレコーダーを回したところ、

 中島検事は「あとで押収するように」と副検事に指示していた。



六、 習慣になっている朝風呂がまだであったので、検事の了解を得

 て、風呂に入ってヒゲを剃った。カメラ写りをよくしておかなけれ

 ば。

  風呂を出て、朝メシを食う。証拠隠滅を疑われても癪であるし、

 食事を妻に応接間まで運ばせて、検事達の目の前で食べた。

  逮捕されたら当分自宅のみそ汁が飲めなくなると思い、みそ汁の

 おかわりをする。味がなかった。



七、 検事のアドバイスによって、当面の着替え、日用品をバッグに

 つめる。本は中西進の文庫本万葉集5冊、お金は5万円、皮のオー

 バーコートも加えた。



八、 午前8時、副検事は自宅に残り、私は、中島検事と渡辺事務官

 と共に、検察のワゴン車で、松江地方検察庁に向った。



九、 松江地検に連行された私は、しばらく控室で待たされた。その

 間、地検の職員であろうか、何人かが私を品さだめしては出ていっ

 た。

  物見見物といったところであろう。



一〇、私は控室から地検3階の検事室に移された。

  中島検事の他に、事務官が2人いた。一人は書記の渡辺事務官で

 あり、一人は立会人であった。

  中島検事が逮捕状を私の面前で読み上げた。中島は、読み上げる

 際に、逮捕状の副本を私に手渡し、私がじっくり眼を通すことがで

 きるようにしてくれた。



一一、中村弁護士が言うように、明らかな別件逮捕であった。逮捕容

 疑は3件記されていたが、私には、それらが何故犯罪であるのか全

 く理解できなかった。とくに、その中の一件については、私の記憶

 に全くないものであった。



一二、午前8時40分、逮捕状が執行され、私は、松江地検3階の検

 事室で逮捕された。

  逮捕後、第一回目の供述調書が作成された。私は、3つの逮捕容

 疑について次のように供述し、サインをして、指印を押捺した。

「3つの内2つのものは、それぞれ真実の登記であり、不正な登記で

 はない。残りの一つは、私の記憶に全くないものであり、検察のい

 いがかりではないか。」



一三、手錠・腰縄をつけられた私は、地検5階の部屋に連行され、正

 面及び左右の横向きの写真を撮影された。明るい部屋であった。左

 右の手の指全て、指紋が採取された。黒のスタンプ台に10本の指

 を一つずつ押捺しては、指紋台帳に写していった。





(続きはWebサイトにて)

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●山根治blog (※山根治が日々考えること)

http://consul.mz-style.com/catid/21



・ある相場師の想い出



  中江滋樹(なかえしげき)氏と出会ったのは昭和51年、今から

 30年ほど前のことでした。私は郷里の松江市で会計事務所を開設

 するために、準備をしていました。当時私は34歳、中江氏は私よ

 り一回り若い22歳でした。

  中江氏は、京都で投資コンサルタント会社(株式会社ツー・バイ・

 ツー)を設立した直後であり、私はその会計顧問を引き受けること

 になりました。山根会計の第一号顧問先が中江氏の会社だったので

 す。このことから中江氏は、私には忘れることのできない存在となっ

 ており、氏との出会いがなければ経験することのできなかった数多

 くの体験をしたことからも、終生忘れることのできない存在でした。

 ちなみに株式会社ツー・バイ・ツーという名前は、中江氏の22歳

 のときに起した会社(2×2)という意味と顧客の資産を2倍に増

 やす(2×2)ことを目指す意味をこめてつけられたものです。



  私が中江氏のことを過去形で語らざるを得ないのは、氏がこの世

 に存在している可能性がほとんどないからです。私が291日間の

 拘留生活を終えて、シャバに出てきたときに会ったのが最後でした。

 7年前、つまり平成9年の1月以降、プッツリと音信が途絶え、私

 だけでなく、中江氏と親しかった人達の前からも完全に姿を消して

 しまいました。

  経済紙等が伝えるところによれば、彼はある上場会社の手形事件

 に巻き込まれ、闇世界のタブーに触れたようです。消されたのでしょ

 う。



  中江氏は、株式市場に乗り出してからほどなく、”北浜(大阪に

 おける株式相場の中心地)の若獅子”(朝日新聞の特集記事の見出

 し)と持て囃されるようになり、若き相場師としての地歩を固めて

 いきました。

  二年余り後に、中江氏は活動拠点を京都から東京へと移し、同時

 にある経済雑誌-投資ジャーナル-を買収し、それまでのレポート

 屋的な存在からの脱皮を図りました。



  私は中江氏の会計顧問をするかたわら、氏の依頼を受けて、推奨

 株の紹介と会社分析記事を書いていました。当時、全上場会社の有

 価証券報告書(ダイジェスト版)が差し換え形式で日本経済新聞社

 から発行されていましたので、これらの分析結果をベースに記事を

 作成したことを懐かしく想い出します。

  締め切りギリギリになることが多く、メールはもちろんファック

 スさえありませんでしたので、私の原稿を電話口から口頭で送った

 ものでした。松江で書き上げ送信した原稿は、ゆうに100本を超

 えるでしょう。



  8年後の昭和59年に、中江氏とグループ各社(14社位あった

 でしょうか)は、証券取引法違反による警視庁の摘発を受け、瞬時

 にして崩壊してしまいました。

  私と中江氏との主たる関係は、中江氏の刑事裁判の第一審までで

 終了しましたので、中江氏の想い出は昭和51年から昭和61年頃

 までの10年間に限定されます。

  つまり私が34歳から44歳まで、中江氏が22歳から32歳ま

 での10年間です。



  中江氏が消息を絶ってから7年、30年にわたる私の会計士人生

 に少なからぬ影響を与えた同氏を追憶し、思いつくままに振り返っ

 てみようと思います。いわば、一人の風雲児に対する鎮魂歌です。

  『冤罪を創る人々』の中に吉川春樹という自称超能力者が出てき

 ます。この人物を私に紹介したのが中江氏でした。私は、この人物

 にまんまと騙されひどい目に会った訳ですが、中江氏もまたこの人

 物に騙された一人でした。



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  このところ、毎日新聞の読者投稿による川柳欄(仲畑流万能川柳)

 を楽しんでいます。今後、私の記事にピタッと合うようなもので、

 気に入った句があれば、一句ずつ紹介していきます。まず。初回。



  “持ち上げてたたいて忘れる週刊誌” -福岡、ちわわ。

           (毎日新聞:平成16年8月12日号より)



(週刊誌だけでなく、朝日のような一流新聞、テレビなど他のマスコ

 ミも同じようです。落差が大きい程、注目度が高くなり、お金にな

 るのでしょうね。社会の木鐸(ぼくたく)という言葉が死語になっ

 てしまったのでしょうか。)

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