冤罪を創る人々vol.23

2004年08月24日 第23号 発行部数:236部

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 「冤罪を創る人々」-国家暴力の現場から-



    日本一の脱税事件で逮捕起訴された公認会計士の闘いの実録。

    マルサと検察が行なった捏造の実態を明らかにする。

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 山根治(やまね・おさむ)  昭和17年(1942年)7月 生まれ

 株式会社フォレスト・コンサルタンツ 主任コンサルタント

http://www.mz-style.com/



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●(第六章)権力としての検察 ― 暴力装置の実態



2.強制捜査 ― ガサ入れと逮捕勾留



(1) 逮捕直前

 

一、 逮捕2日前の、平成8年1月24日午後、第一勧業銀行のK松

 江支店長から、私の事務所と自宅に電話が入った。第一勧銀は私の

 自宅の左斜め前にあり、私の取引銀行である。

 「朝から、銀行の駐車場にカメラを構えた車が陣取っていた。銀行

 としては迷惑なので、出ていってもらったが、お宅を標的にしてい

 るようだ。」



二、 私は近くの碁会所で碁を打っていた。妻から、銀行の支店長か

 らの話が伝えられた。

  内偵か、逮捕の用意か?碁の区切りがついたところで急いで自宅

 に帰った。



三、 あたりを見まわして捜したところ、右斜め前のN酒店の駐車場

 に一台のバンが駐車していた。車の窓にカーテンが張ってあり、よ

 く見るとカメラのレンズが私の自宅に向いていた。隣には、運転手

 だけが乗った黒塗りのハイヤーがエンジンをふかして待機している。

  私は近くまで言って、バンとハイヤーの車輌番号を控えてから、

 急いで自宅に戻り、カメラをもって出てきたところ、車は2台とも

 消えていた。

  この時隠し撮りした映像が、NHKのテレビで繰り返し放映され

 た。私が20年来着古している皮コートを身につけ、風邪のためマ

 スクをして、玄関から駐車場に向かう姿である。



四、 私は、N酒店に赴き、N夫人に事情を聞いてみた。

 「朝の7時ごろから、NHKがうちのバンを借りてずっとお宅を見

 張っているんですよ。どうしたんでしょうね」

  N夫人は、一寸バツが悪そうであった。



五、 20分程でバンが帰ってきた。若い男が車から降りて、N酒店

 に入った。

  カメラを携えて私もN酒店に入り、男にカメラを向け写真を撮ろ

 うとしたところ、男は顔を隠して一目散に逃げ出した。

  追跡が始まった。4枚位写したであろうか、10分程追いかけ回

 したが、逃がしてしまった。



六、 逮捕1日前の平成8年1月24日、事務所の職員から山根ビル

 隣の家電量販店の駐車場に、ビルを見張っている一台の車がいるこ

 とを知らせてきた。車輌番号は、昨日のハイヤーと同一だ。

  午前10時半、私は車で事務所に向かい、入口付近で隣の駐車場

 を見たところ、確かに3人の男が黒塗りのクラウンに乗ってビルの

 出入口を見張っていた。

  ヨーシ、今度こそはキチンとカメラにおさめてやろうと思ってい

 たが、事務所に入り電話をかけたり、仕事の指示をしたりしている

 うちに、気がついたらいなくなっていた。11時前には引き払った

 ようである。惜しいことをしたものである。



七、 マルサの件で、強制捜査、あるいは逮捕のおそれがでてきた。

 中村寿夫弁護士のアドバイスに従って、逮捕された場合にそなえて

 声明文を作成することにした。このとき用意した声明文は次のとお

 りである。





              声明文



  平成5年9月28日、広島国税局査察部門による強制捜査を受け

 て以来、2年4ヶ月が経過した。

  その間、私は取調べに積極的に協力し、かつ、7万字に及ぶ申述

 書を作成し、数多くの証拠資料を添えて、嫌疑を晴らすべく、嫌疑

 事実が全くいいがかりにすぎないことを国税当局に立証してきたと

 ころである。

  しかるに、国税当局は、メンツを重んずる余りか、当初の思い込

 みをそのまま押し通し、事実にあらざるフィクションを創り上げ、

 脱税と決めつけ、敢えて松江地検に告発する暴挙に出た。





(続きはWebサイトにて)

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●山根治blog (※山根治が日々考えること)

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  この7月で満62歳になりました。60歳が耳順(じじゅん)と

 言われていますので、それを2年ほど超えたことになります。

  孔子は、四十にして惑(まど)わずと言い、五十にして天命を知

 ると言い、六十にして耳順(みみしたが)うと言っています。

  私の場合はどうでしょうか。四十にして惑わず、どころではなく、

 いよいよ惑い、五十にして天命を知るどころか、逮捕され更に惑い

 が深くなりました。



  耳順の意味を確認するために、岩波の広辞苑をめくってみたら、

 次のように記されていました、―



 ”じじゅん(耳順)。論語為政「六十而耳順」。修養ますます進み、

 聞く所、理にかなえば何らの障害なく理解しうる意。60歳の異称。”



  不惑(ふわく、40歳)、知命(ちめい、50歳)共に私には全

 く当てはまらないのですが、耳順(60歳)については、なるほど

 と思われるフシがあります。

  確かに60歳を過ぎた頃から、今まで気付かなかったこと、今ま

 で見えなかったことが、気が付き、見えるようになってきたことは

 事実です。



  孔子はより深い意味をこめて、耳順(みみしたが)うと言ってい

 るようですが、私の場合たとえば読書という極めて狭い領域につい

 て限定してみますと当てはまるようなのです。

  人生経験を積み重ねるにつれて、同じ本あるいは同じ作家であっ

 ても、訴えかけてくるものが異なると言われていることと同じこと

 なのでしょう。本とか作家が変わる訳ではありませんので、読む側

 が同じ人物であっても、年月の経過と共に人物そのものが微妙に変

 わっていくんですね。



  幸田文(こうだあや)という女流作家がいました。明治の文豪で

 あり考証家でもあった幸田露伴の娘にあたる人です。86歳の天寿

 を全うし、平成2年に亡くなっています。



  私がこの作家の作品に出会ったのは、たしか高校の教科書の中で

 した。作家のエッセイの一編が載せられており、題名も含めほとん

 ど忘れましたが、エビ釣りの話であったと記憶しています。

  エビ釣り専用の細かい釣り針に、ミミズをつけて手長エビを釣る

 のは、私の幼い頃の楽しい思い出の一つです。作家にも同様な経験

 があったようで、釣り糸をそおっと引き上げると、”もわもわっと”、

 細長い両手を広げてエビが川面に浮かび上がってくる情景が実に見

 事に表現されていました。

  今から40年以上も前のことながら、作家の端正な美しい日本語

 は私の脳裡に鮮やかに残っています。



  父露伴が昭和22年に80歳で死去したのが、作家43歳のとき

 でした。作家が文章を書きはじめるのは、それ以降のことですから、

 私が接した作品は作家の40歳代後半のものでしょう。

  最近、作家45歳の時の作品で代表作と目されている「みそっか

 す」(岩波文庫)を読んでみました。このところ私の興味の視野に

 考証家としての幸田露伴が入ってきましたので、露伴の生涯にわたっ

 て至近距離で娘の立場から父親を見続けてきた人の、文豪の想い出

 を読みたくなったからでした。



  父露伴だけでなく、祖母、おば達を含めた周囲の人々が、露伴の

 言葉を借りれば”しゃっとした”日本語で描き尽くされています。

  端正な美しい日本語が、寸分のゆるみもない文章に仕立てあげら

 れているのは、ただ驚くほかありません。

  この作品など、今の62歳になった私だから理解できることが随

 所にあります。いたずらに年をとることを馬齢を重ねるといいます

 が、馬齢を重ねる楽しさが少しずつ分かってきたというのが、「耳

 順」についての現在の私の理解であるようです。

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