冤罪を創る人々vol.20

2004年08月03日 第20号 発行部数:216部

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 「冤罪を創る人々」-国家暴力の現場から-




    日本一の脱税事件で逮捕起訴された公認会計士の闘いの実録。


    マルサと検察が行なった捏造の実態を明らかにする。


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 山根治(やまね・おさむ)  昭和17年(1942年)7月 生まれ


 株式会社フォレスト・コンサルタンツ 主任コンサルタント


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●(第五章)権力としてのマルサ ―暴力装置の実態




「3)藤原孝行・悪魔の証明 ― 鍵束の押収」より続く


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(3)藤原孝行




(エ) 国税査察官証票




一、 藤原孝行が、平成5年9月28日の朝、私の自宅に捜索令状を


 手にしてやってきたとき、名刺入れをひと回りおおきくした黒革の


手帳を私の眼の前につき出した。


 水戸黄門の印籠ならぬマルサ手帳(国税査察官手帳)である。藤原


は、どうだこれが眼に入らぬかとばかりに胸を張り、誇らしそうに呈


示した。チラッと見せただけで、すぐにポケットにしまいこんだ。




二、 その後、藤原孝行が、自分から私に呈示することは二度となかっ


 た。




三、 平成6年2月8日、藤原孝行と新本修司の二人が、私の事務所


 にやってきたとき、私は、二人の身分証等を改めて確認し、記録に


 残しておこうと考えた。


  捜索令状を書き写し、質問顛末書を書き写したのであるから、マ


 ルサ手帳を書き写さなければ、いわば画竜点睛を欠くというものだ。




四、 私は、藤原孝行に次のように申し向けた、 ―




山根:「この間は、名刺はいただいたんですが、身分証明書見せてい


 ただいてないので、見せて下さい。」




五、 この申し出をきっかけに、私と藤原の押し問答が始まった、 ―




藤原:「以前見せたでしょう。」


山根:「いや、あのときはよく見せてもらえなかったので、改めて見


 せて下さい。」


藤原:「いいじゃないですか。」


― 藤原、大声を張り上げる。


山根:「あなた、公務員じゃないですか。」


藤原:「そうですよ。」


山根:「その上、エリート査察官なんでしょ。」


藤原:「エリートなんかじゃない。」


― 藤原、ふくれている。


山根:「今日は、身分証明書を持ってきていないんですか。」


藤原:「持ってきていますよ。」


山根:「じゃあ、私に見せて下さいよ。」


― 藤原、仕方なしにポケットから、黒革をとり出してチラッと見せる。


山根:「私に手渡してよく見せて下さい。」


藤原:「身分証は嫌疑者に呈示すればよいもので、手渡すことはでき


 ない。」


― 藤原、黒革をポケットにしまいこもうとする。


山根:「ストリップじゃあるまいし、チラチラ見せて、すぐに隠すと


 はどういうことか。マルサは、いつからストリッパーになったんで


 すか。


  私は手にとって確認した上で、記録しておきたいんですよ。」


藤原:「なんのために、記録なんかするんですか。」


― 藤原、声が更に大きくなる。


山根:「何のため?君達のような暴力団に二度と出会うことはないだ


 ろうから、せっかくのチャンスだと思って記録しているんですよ。」


― 藤原、提灯フグとなった。プップと頭から湯気を立てている。ど


 うしても黒革を私に手渡そうとはしない。強情な男である。




六、 このとき、2人のやりとりをきいて、オロオロしていた新本修


 司が、「じゃ、自分のを写して下さい。」と申し出て、私に自分の


 黒革手帳を手渡してくれた。


  私は、新本のマルサ手帳を手に持って開き、記録した。収税官吏


 章、国税査察官証票及び身分証明書の3つである。




七、 私は、新本修司の収税官吏章等を写し終え、改めて藤原孝行に


 申し向けた、 ―




山根:「あなたは、どうしても私に手渡して見せてくれないので、読


 み上げてくれませんか。それを私は書きとることにします。


  その前に、あなたが手に持ったままで結構ですから、顔写真の確


 認をしたいし、新本さんのものとフォームが同じものかどうか確か


 めたいので、私にじっくり見せて下さい。」


― 藤原、ふてくされながらもこれに応じた。




山根:「じゃ、収税官吏章から読み上げて下さい。」


藤原:「はい。」


山根:「番号は?」


藤原:「第1122号」


山根:「肩書きと氏名は」






(続きはWebサイトにて)


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●山根治blog (※山根治が日々考えること)


http://consul.mz-style.com/catid/21






「司馬遼太郎さんについて-その6」より続く


http://www.mz-style.com/item/91






  作家は、俗に「セックスの教典」とも言われている理趣経(般若


 波羅密多理趣品)を取り上げ、空海の性の問題を更に掘り下げてい


 きます。この教典は、空海が重要な教典と考えていたものの一つで、


 現在の真言密教のみならず、他の宗派においても主要な教典とされ


 ているものです。




 ”いわゆる妙適(みょうてき)清浄(しょうじょう)の句、これ菩


  薩の位(くらい)なり。”




 (所謂妙適清浄句是菩薩位)




  これは、理趣経本文の冒頭部分にでてくる言葉であり、「十七清


 浄の句」とされるものの最初のもので、清浄についての総論とされ


 ているものです。


  作家は、この経文を『男女交媾の恍惚の境地は本質として清浄で


 あり、とりもなおさざそのまま菩薩の位である。』という意味でと


 らえています。




  ”妙適”は、サンスクリット語のスラタ(surata 蘇羅多)の訳


 語とされ、「性交の一境地をあらわしている」と作家は解し、上の


 ような理解に達しています。


  一般に、真言密教の教学の立場からは、この理趣経におけるセッ


 クスの表現を、あくまで単なる比喩として捉えようとしています。


 (たとえば、松長有慶「理趣経」-中公文庫)


  しかし、作家は、決して比喩的な表現であるとは考えていません


 し、空海もそうであったろうと述べています。健康な男子として人


 一倍旺盛であったに違いない自らの性欲に直面した空海が、命がけ


 の格闘の末に、性欲を肯定した上で超克し、無我の境地に至れば一


 転して清浄なものとなると悟ったようですが、現在の私には、よく


 理解できません。もっとも、これを比喩的なものであるとする考え


 方は、より一層私の理解から離れていきます。




  理趣経は、現在でも理解が難しいとされていますが、1200年


 前の空海の時代でもその扱いが難しいものであったようです。


  その為であったのでしょうか。空海と最澄との間で生じたトラブ


 ルの一つが、この理趣経をめぐるものでした。




  最澄、-日本天台宗の開祖であり、空海より7つ年上です。延暦


 23年(西暦804年)7月6日、第16次遣唐使の一員として、


 最澄は空海と共に唐に向っています。もっとも、二人が乗った船は


 別々ですし(空海は正使である藤原葛麻呂と共に、指揮船の第一船


 に乗り、最澄は藤原清公と第二船に乗っています)、社会的な立場


 は、最澄の方がはるかに上でしたので、二人の接点はほとんどなかっ


 たようです。


  二人の交際が始まるのは、最澄が延暦24年(西暦805年)に


 帰国し、空海も予定を大幅に短縮してその翌年の大同元年(西暦


 806年)に帰国してからのことです。




  最澄は、年下であり格下でもある空海に対して、最大限の礼を尽


 くして接しています。最澄は自らを「弟子」と称し、空海を「師」


 と崇めているほどです。


  空海が持ち帰った経典の借覧、空海が長安で恵果(けいか)和尚


 から学んだ密教の伝授、-最澄はこれらのことを念頭に、文字通り


 三顧の礼を尽くしています。


  弘仁四年(西暦813年)11月23日、最澄は空海に手紙を書


 き、理趣釈経(不空訳の理趣経の注釈書)の借覧を求めました。最


 澄47才、空海40才の時のことでした。


  しかし、辞を低くして懇請する最澄に対して、空海は理趣釈経の


 貸与を拒絶しました。




 -理趣経は、いくら立派な注釈本に頼ったところで、経典を読むだ


 けではいけないというのです。それどころか、しかるべき修法を実


 践しないで経典だけに頼ろうとすると、かえって害悪をまき散らす


 ことにもなりかねない、あなた(最澄)が教えに従って修法し、そ


 の段階になったら、喜んで貸与しよう、それまでは駄目である、-




  空海の長文の手紙は、まさに師が弟子に対して教え諭すように、


 かんでふくめるように書かれています。


  当時の日本仏教界における第一人者であった最澄に対してのもの


 であるだけに、驚きですね。理趣経がともすれば誤解され易い経典


 であることは、空海が経典の注釈書の貸与を拒否した事実から端的


 に判る気がいたします。


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