冤罪を創る人々vol.21

2004年08月10日 第21号 発行部数:223部

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 「冤罪を創る人々」-国家暴力の現場から-




    日本一の脱税事件で逮捕起訴された公認会計士の闘いの実録。


    マルサと検察が行なった捏造の実態を明らかにする。


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 山根治(やまね・おさむ)  昭和17年(1942年)7月 生まれ


 株式会社フォレスト・コンサルタンツ 主任コンサルタント


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●(第五章)権力としてのマルサ ―暴力装置の実態




「3)藤原孝行・国税査察官証票」より続く


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(4)三瀧恒雄




一、 広島国税局査察調査部査察第四部門統括査察官。


  現在は、税理士。平成13年登録。広島市で税理士事務所を開設


 している。




二、 平成5年9月28日、マルサのガサ入れ当日、部下の田村友治


 (査察第四部門査察官)と共に、組合長の岡島信太郎氏の尋問を担当。




三、 三瀧は、田村友治と、代わる代わる大声を張り上げて岡島氏を


 脅しあげた。


 「お前は組合長なんだろう。16億5千万円で購入したものを、何


 で1000万円で売ったりするんだ。一体どういう了見なんだ。組


 合に対する背任行為ではないか。背任罪で告発されたら、どのよう


 な申し開きをするというんだ。」




四、 岡島氏は、脱税だといって脅されたのに加え、背任罪で脅され、


 震え上がった。




五、 9月28日の夜、私は岡島氏に電話をして取調べの状況を確認


 したところ、以上のような余罪の追及の事実が判明したのである。


  明らかに違法である。このようなことが許されるはずがない。




六、 翌9月29日午前10時、取調べの為、松江税務署一階の臨時


 取調室に赴いた私は、査察官藤原孝行に対して、益田税務署におい


 て違法な調査がなされていることを申し述べ、厳重に抗議した。


  同時に、益田税務署にいる担当査察官を電話口に呼び出すように


 要求した。直接、抗議をし、余罪の追及をして脅し上げるのを中止


 させる為であった。




七、 電話口に出てきたのが、三瀧恒雄であった。私はきつく抗議し


 た、 ―


 「国犯法の調査で、一体何ということをするのか。背任罪で告発す


 るようなことを言って脅すのは中止して欲しい。」




八、 私の言葉が終るか終らないうちに、三瀧は怒り出し、大声を張


 り上げて、怒鳴りまくった。私の耳の鼓膜が一瞬おかしくなるほど


 であった。


  今まで、マルサに対して、文句をつけたり、抗議をしたりした者


 がいなかったのであろう。電話越しに、三瀧が顔を真っ赤にして怒っ


 ている様が伝わってきた。






(5)永田嘉輝




一、 大木洋の後任。平成6年7月、広島国税局調査査察部第三部門


 統括国税査察官。検察庁への告発書類を決裁した人物。




二、 平成6年12月16日、午前10時54分、永田嘉輝に架電。


  永田曰く、『今までの話、いろいろ聞いております。調査に協力


 いただけてない。部下を馬鹿野郎呼ばわりするような方とは、一切


 話したくないので電話を切ります。』




三、 確かに、私は、前日の12月15日に、藤原孝行に電話で厳重


 に抗議をし、その際、藤原に対して、「君達マルサはドロボーか強


 盗だね。」と申し向けたのは事実である。バカヤローなどという品


 のないマルサ用語など決して発してはいない。


  私は、自分のことを一度も品のいい紳士だと思ったことはない。


 ただ、マルサの人達ほどひどくはないと思っているだけだ。




四、 永田は、私に一切話をさせずに、怒気を含んだ声で、一方的に


 まくしたて、電話を切った。その間わずか25秒であった。


  その後、私が何回電話しても、電話口に出ようとはしなかった。


 私が永田嘉輝と話をした、というより永田が一方的に怒鳴りまくっ


 たこの25秒間が、私と永田との直接の唯一の接点であり、その後、


 永田はマルサの伏魔殿から出てこようとはしなかった。






(続きはWebサイトにて)


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●山根治blog (※山根治が日々考えること)


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「司馬遼太郎さんについて-その7」より続く


http://www.mz-style.com/item/94






  作家は、空海の人生の折々にかいま見られる言動をもとに、空海


 が世間的才覚にたけていたとし、「ずるい」人物であったとしばし


 ば述べています。また、決して淡白な男ではなく、むしろ、並外れ


 て執念深い性格であったとし、「もし空海が大山師とすれば、日本


 史上類のない大山師である」とさえ極言しています。とりわけ、


 「最澄に対する底意地の悪さ」について語るとき、作家のペンは一


 段と冴えていくようです。




  作家は、空海の出自に疑問を投げかけ、その死について入定説を


 否定し、生涯不犯ではなかったとし、世渡りが巧みで執念深い底意


 地の悪い人物であったと述べている訳ですが、作家の意図するとこ


 ろは空海を誹謗したり中傷して、おとしめることではありませんで


 した。


  作家の興味は、仏教の一派を立ち上げ、現在に至るも即身成仏と


 して多くの人の信仰の対象になっている弘法大師空海上人にあるの


 ではなく、1200年前に62年の生涯を送った俗称佐伯の直某


 (さへきのあたひなにがし)という一人の人物にあったようです。




  作家は、「空海の風景」について、作品の中でしばしば小説であ


 ると言っています。相当に綿密な考証をしながらも小説=フィクショ


 ンであると強調しなければならなかったのは、史実に反すること、


 あるいは、空海自身の言説に矛盾するような記述が見られることか


 ら、なんとなく納得できるようです。


  たとえば、空海の出自について、日本書紀等の資料から、蝦夷で


 あると推断していることについては、面白い着眼点であり、それな


 りに説得力を持っています。しかし、天長5年(西暦828年)頃、


 空海が55才の時(最澄が入寂して六年後)、大伴宿称国道が蝦夷


 征討の任を帯びて出立するに際して、詩を贈り、文章を添えている


 のですが、仮に空海が蝦夷の末裔であるとすれば、理解に苦しむよ


 うな内容が記されているのです。




 ”景行皇帝、撫運(ぶうん)の日、東夷(とうい)未(いま)だ賓


 (ひん)せず。日本武尊(やまとたけるのみこと)、左右の将軍、


 武彦武日(たけひこたけひ)の命(みこと)等を率ゐてこれを征す


 るに、毛人(ぼうじん)面縛(めんばく)せらる。


… 中略 …


  武日(たけひ)、これを平(たひら)げしより己来(このかた)、


 毎(つね)に時々(をりをり)に逆(そむき)をなす。諸の氏(う


 ぢ)を遣(つか)はして将(しょう)としてその辜(つみ)を罰せ


 しむ。


  しかれども猶(なほ)、人の面(おもて)、獣(けだもの)の心


 ありて朝貢(てうこう)を肯(がへん)ぜず。”




 (景行天皇の諸国平定の折、蝦夷はいまだ服従しようとしなかった。


 父の命を受けたヤマトタケルは、タケヒ将軍等を従えて征伐に向っ


 たところ、蝦夷は戦うことなく降伏した。


… 中略 …


  タケヒ将軍が平定してから後も、蝦夷は、反逆を繰り返してきた。


 歴代の朝廷は、何度か征夷大将軍を派遣して、蝦夷の反逆罪を罰し


 てきたところである。


  しかし、蝦夷は顔付きは人間であっても、心は獣畜のようなよこ


 しまなものであって、ミカドへの貢ぎ物をしようとしない。)




 -贈伴按察案平章事赴陸府詩、并序。「性霊集、巻第三」(岩波、


 日本古典文学大系)


 (漢文の読み下しは、岩波の大系本により、現代語は、拙訳による)




  この中で私が気にかかるのは、「人の面、獣の心ありて」とする


 部分です。


  空海が生を享けた、讃岐の佐伯氏は、作家が言うように蝦夷の末


 裔であるかどうかはともかくとして、当時の地方豪族の一員であっ


 たことは疑いのないところです。従って、氏の由来については、そ


 れなりの伝承があったと考えるのが自然であり、空海も幼いときか


 らよく聞かされてきたはずです。


  だとすれば、自らのルーツである蝦夷に対して、「人の面、獣の


 心ありて」というような表現をするでしょうか。自らの先祖に対し


 て、人間性を全面的に否定するような言辞を弄することは、通常で


 は考えられないことでしょう。


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