藤原肇さんから電話があった。令和2年7月25日、私との会話が堤康次郎の書生のような存在であった中島忠三郎が終戦時の上海総領事(勅任)であったことに及んだ時、藤原肇さんの口から山下元利の名前が飛び出した。 「大蔵官僚であった山下元利が、堤康次郎の相続についての相談にのり、相続税の支払を極力おさえるカラクリに一役買ったこと、佐藤肇(『昭和陸軍“阿片謀略”の大罪 天保銭組はいかに企画・実行したか』の著者 […]
生前の中江滋樹氏とは、多くの時間を費やして二人きりで話し合っただけでなく、数多くの手紙のやりとりをしている。 ここに中江滋樹氏からの最後の私信を公表する。本稿の末尾に掲載したのがそれである。 この私信は郵送されたものではない。二人にとっての想い出の場所、赤坂の土佐料理店・祢保希(ねぼけ)において食事をしながら手渡されたものだ。近くには、中江滋樹氏が半玉の宗千代さんと一時期暮らしていたマンションの瀟 […]
令和2年7月11日、藤原肇さんと40分ほど電話で話し合った。16年間、2人で話し合ってきたことがようやく一つの結論に到達したようである。ガイア・ドクタ-としての藤原肇さんと、ビジネス・ドクタ-としての山根治が、互いの認識論をぶつけあった結果、一つの歴史論が完成したようである。 前回(「中江滋樹氏からのダイイング・メッセ-ジ-⑮-見えてきた裏の構図-(6)」)、早稲田大学を「寝わざ師」の大学とし、早 […]
(1)令和2年7月4日、海外にいる藤原肇さんから電話があった。私のブログ記事(「中江滋樹氏からのダイイング・メッセ-ジ-⑬-見えてきた裏の構図-(4)」)を読んだ藤原肇さんの読者から連絡があったという。岡本秀樹の評伝「ロレンスになれなかった男-空手でアラブを制した岡本秀樹の生涯」が出版されたことを知らせるものであった。 ODA政府資金のフィクサ-であった岡本秀樹や三宅和助、渡部恒三の実像の一端を […]