「福沢諭吉の正体」-⑫

 福沢諭吉は、広辞苑によれば「思想家・教育者」(「福沢諭吉の正体-①」参照)だそうである。

 教育者についてはすでに述べた通りなんともオソマツなものであった。当時の西欧の学問のごく一部、しかも皮相的かつ初歩的な部分を実学と称して日本に紹介し、鼓吹しただけの人物だ。現在の学習塾とか予備校の経営者と変るところはない。教育者というよりも、慶応義塾というレベルの低い学習塾の経営者であったということだ。

 教育者に関して言えば、福沢はにわかには信じ難いことを主張している。人間は遺伝によって決まっている能力を一毫一厘こえられないという、「遺伝絶対論」である。

 つまり、日本人の場合は、遺伝の能力の優れている士族・豪農・豪商という「良家の子弟」を優先してエリート教育を実施するように提案し、「貧民家庭の子弟」に学ぶチャンスを与える可能性のある官立大学や公立の高等教育機関を、経費負担の重い私立学校に改編することを一貫して主張した。

 福沢のこの発言、金(かね)勘定に抜け目のない私塾経営者の本音である。まさに我田引水も極まれり、あまりのことに論評する言葉もない。

 戦後、貧乏人は麦を食えと言い放った官僚上がりの総理大臣がいたが、貧民差別はその後エスカレートの度を加え、現在の安倍政権においてピークに達している感がある。
 安倍晋三総理とコンビを組んでいるのがマンガオタクの麻生太郎副総理(財務大臣)だ。この御仁(ごじん)、衆院選初出馬の際、街頭演説の第一声で、

「下々(しもじも)の皆さん!」

とブチかまして平然としていたというマンガのようなエピソードを残していることを忘れてはならない。

 では思想家についてはどうか。
 まず、一般的に思想とは、

「その人の・生活(行動)を規定し、統一する所の・人生観(社会観・政治観)」(新明解国語辞典)

のことだ。
 このような思想の意味合いを前提として、思想家とは、

「思想が深く豊かな人」(広辞苑)

であるとされている。
 以上のような思想家の定義を前提として、福沢諭吉の全生涯を見てみると、とても思想家であるなどと評することはできなくなる。
 安川寿之輔氏は、福沢諭吉を融通無碍(ゆうずうむげ。考え方や行動が、何物にもとらわれず自由であること。新明解国語辞典)の「思想家」であるとする。

「融通無碍に自説を開陳し、むしろなりふりかまわぬ思想の無節操性を築き上げた人物であった。(前掲書.P.247)」

とまで酷評しているのである。
 安川氏が、上記のように思想家にカッコをつけて「思想家」と表現しているのは、先に挙げた思想家の定義にあてはまらない、思想家モドキであることを強調するためであったろう。
 政治がらみのフィクサー、あるいは思想家モドキの人物を一般に「デマゴーグ」と言うが、福沢はフィクサーでありデマゴーグではあっても断じて思想家などではない。
 以上により、福沢諭吉を「思想家・教育者」とした広辞苑の記述は誤っており、訂正されるべきであろう。

 福沢諭吉の思想が無節操(むせっそう。倫理的に見て、行為や考え方に全く一貫性が認められないこと。新明解国語辞典)であったことは、安川寿之輔氏がいまになって新たに指摘していることではない。
 福沢の同時代人であった、徳富蘇峰、陸羯南(くがかつなん)、内村鑑三、鳥谷部春汀(とやべしゅんてい)なども口を揃えて福沢の思想が無節操であったことを指摘している。つまり、

「福沢には原理原則、哲学がなかったという評価で共通している。」(前掲書.P.247)

のである。 

(この項つづく)

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 ここで一句。

”いま地球回してますと酔っぱらい” -久喜、高橋春雄

(毎日新聞、平成26年7月18日付、仲畑流万能川柳より)

(“いま日本回してますと酔っぱらい、安倍川餅でクダを巻き”)

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