「福沢諭吉の正体」-②
- 2014.08.19
- 山根治blog
福沢諭吉は明治5年、『学問のすすめ』を出版し、実学を鼓吹(こすい。太鼓を打ち笛を吹く意。何かすることの意義を一人ひとりに宣伝し、積極的にそうしようという気持ちにさせること。-新明解国語辞典)した。
福沢は一般大衆を、「所謂(いわゆる)百姓町人の輩(やから)」と称し、「無知文盲の民」、「豚の如き存在」であると断定した上で、その啓蒙(けいもう。蒙は知識不足の意。情報の寡少な一般人に必要な知識を与え、知的水準を高めること。-新明解国語辞典)の必要性を力説した。
福沢の念頭にあったのは、自らを含めた文明開化のリーダーだけであった。浪士、豪農、儒者、医師、文化人等こそがリーダーの名に値する人種であり、それらを「士族」と総称した。
彼は「士族」以外の一般大衆、つまり「所謂百姓町人の輩」は、維新の大業・新政を傍観して徒食(としょく。働く気持もなく、遊び暮すこと-新明解国語辞典)するだけの「豚の如き存在」であると扱(こ)き下(おろ)した。
ただ、「豚の如き存在」ではあっても、努力して「学問」さえすれば、「豚の如き存在」から脱することができ、リーダーとなることができると力説したのである。
福沢が鼓吹した「学問」は、前回述べたように、“西欧の学問のごく一部、しかも内容的に初歩的かつ皮相的なもの”であった。
要は、人間が社会生活をする上で直接役に立つ学問に重きを置き、彼はこれを「人間普通日用に近き実学」と称した。実学の勧めである。
福沢は、日本古来の学問のほとんどは、実学ではないとし、実学以外の学問は、実なき学問であるとして排斥した。まさに、盲(めくら)蛇に怖(お)じず、といったところである。
尚、福沢が、一般大衆と学問に対してどのような考え方をしていたのかについては、安川寿之輔著『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』-高文研、を参考にした。
安川氏は、戦後丸山眞男によって創り上げられた福沢諭吉の虚像-福沢神話を完膚(かんぷ)なきまでに打ちくだいた。私が近年福沢諭吉に対して抱いていた、ウサン臭さの原因を具体的に摘出(てきしゅつ)し、白日の下に晒(さら)した。安川氏の緻密な論証には、ただ脱帽するほかはない。見事である。
私の冤罪事件について有罪の判決が確定し、3年間の執行猶予の期間は会計士と税理士の登録が抹消され、それぞれの業務ができなくなった。今から10年ほど前のことである。
資格を使えなくなって、さてどうしたものかと考えあぐねていたときにひらめいたのが、認知会計 Cognitive Accounting(「123 認知会計の発見 – 冤罪を創る人々」参照)であった。私の職業の中核をなしている会計とは一体なんだろうと考えているうちに、浮かんできたアイデアだ。
その際、日本における簿記会計のルーツが気になり、調べてみた。その結果、明治の初めに、福沢諭吉が翻訳したアメリカの簿記の教科書が嚆矢(こうし)であることが判明。
明治6年6月に慶應義塾出版局から出された『帳合の法』(『福沢諭吉全集』第三巻、P.331~P.550。岩波書店)がそれである。
原著は、“Bryant and Stratton’s Common School Book-keeping:embracing single and double entry,New York,1871”である。当時、アメリカで用いられていた初級の簿記の教科書だ。現在の日本における3級程度の簿記のテキストである。
昭和34年、私は島根県立松江商業高等学校に入学した。今から55年前のことだ。
商業高校一年生のとき、授業で最も多くの時間が割かれていたのが簿記であった。週5時限が簿記の授業であったから、ほとんど毎日簿記をたたき込まれていたことになる。
私達が学んだ簿記は、日々の商取引を近代簿記特有の仕方で二つの要素に分解(これを仕訳という)して記録するやり方だ。仕訳のルールさえ覚えれば、極めて簡単なものである。
商用文字とか数字の書き方に始まり、文字、数字の訂正の仕方、実際の伝票、帳簿の書き方など、それこそ理屈ではなく身体で覚えさせられた。その際ソロバンは必需品とされ、ソロバンの活用は簿記の学習と一体となっていた。
なかでも仕訳のルールについては理屈をつけることは無用であるとされ、丸暗記が求められた。いかに帳簿に記録し、まとめていくか、これは一つの技術であり、下手に理屈をつけてはいけないとされたのである。簿記会計の職人の養成である。この時身体で覚えた簿記の技術とソロバンの活用法は、その後の会計士人生にどれだけ役に立ったのか、図り知れない。
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ここで一句。
(羊頭狗肉。)
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