修正申告の落とし穴-⑧

 治安維持法。架空の観念である「国体」を守ること(国体の護持)を目的とした法律である。この「国体」なるものは江戸時代の初めの水戸国学に発し、天皇を神であるとした架空の観念をもとに明治維新政府によって政治的イデオロギーに祭り上げられたシロモノだ。従って、法律自体、架空の観念の積み重ねのようなものであり、訳の分らない怨霊とでも言うべき存在であった。大正14年(1925年)に制定された後、昭和16年(1941年)に全面的に改正され猛威を振った。共産主義者だけでなく、三木清のような思想家とか宗教家など広く国民一般が、怨霊の餌食となった。要は、国家に不都合な人物であれば誰でも逮捕拘禁して処罰することができるムチャクチャな法律であった。作家の小林多喜二が逮捕取調べ中に拷問によって殺されたり、哲学者の三木清が糞まみれ状態で獄死するなど、数多くの人達が治安維持法違反で逮捕・拘禁、あるいは刑に処せられて無念の死に至った。ことに、拘禁中の拷問や虐待で多くの無辜(むこ。罪を犯していない-新明解国語辞典)の人達が、人生を破壊され、命まで落としていったのである。

 昭和20年(1945年)8月、日本はポツダム宣言を受諾し、戦争を終結、敗戦国となった。同年9月、東京湾に浮かぶアメリカの戦艦ミズーリ号上で無条件降伏文書の調印式が行なわれ、戦争は正式に終結した。
 しかし、戦争終結の任にあたった東久邇内閣は、迫り来る共産主義革命に対処するため、治安維持法を維持運用することにこだわり、思想取締の秘密警察(特別高等警察、略して特高)を廃止しようとはしなかった。
 これに対して、GHQは同年10月4日に、「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去に関する司令部覚書」なる人権指令を発し、治安維持法の廃止を迫った。
 しかし、東久邇内閣はそれを拒絶して総辞職、後継の幣原内閣によって、「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に基づく治安維持法廃止等(昭和20年勅令第575号)」が発せられ、治安維持法が廃止され、同時に怨霊の手先となって日本国民を蹂躙(じゅうりん)した特高も解散を命じられた。

 「国体」も架空の観念であり、「国体の護持」もまた架空の観念であった。架空の観念である「国体の護持」を目的に掲げた治安維持法は、この意味から架空の産物である。私が治安維持法を怨霊と称する所以(ゆえん)である。
 これらの架空の観念はともに、”天皇は神である”とする架空の観念から派生したものだ。
 治安維持法が廃止された2ヶ月後、昭和21年1月1日に、詔書が発表され、天皇を現御神(あきつみかみ)としたことは「架空の観念」であったことを、天皇みずから明らかにされた。いわゆる天皇の人間宣言である。
 この天皇の人間宣言は同時に、かつての治安維持法が偽りの法律であったことが天皇によって確認されたことを意味する。怨霊が消えたのである。

 以上のように、日本国民を意のままに操り、暴虐の限りを尽した治安維持法は、幻のように消えていった。国民を統治するための暴力装置が、昭和21年1月1日をもって跡形もなく消え去った。
 ところがどっこい、治安維持法にかわる暴力装置がひそかに残されていた。それが国犯法である。
 脱税という切り口で全国民に睨みを利(き)かせ、国家に刃向う者はことごとく叩きつぶす暴力装置として温存されてきた。
 ここで言う国家とは、日本国憲法が唱っている国家ではない。憲法では、「全体の奉仕者」(憲法第15条第2項)であるとされている公務員が、逆に国民の上に君臨し統治する倒錯した国家のことだ。
 ことに、公務員の中の一握りの官僚と称するキャリアが、日本を我がもの顔で統治し、日本国と国民とを食い物にしている”国家”である。
 この官僚という怪しげな存在は、古代国家における「令外の官(りょうげのかん)」のようなものだ。法制度の枠外にあって、国家権力を事実上支配した摂政、関白、蔵人頭を思い浮かべればよい。ただ、これら古代の令外の官は決して日陰の存在ではない。堂々とした表の存在であった。
 これに対して現代の令外の官である官僚はどうか。倒錯した国家を振りかざすなど、日本国憲法の規定に明らかに反する行為を平然として敢行する存在であり、日陰の存在だ。日本国の統治者であるかの如く振舞い、国民を自由気ままに支配してきた。陰湿かつ陰険な存在であり、怨霊とかわるところはない。

 現代の怨霊というべき官僚を支えてきたのが、国犯法という名の暴力装置であった。治安維持法という暴力装置が形をかえてしぶとく生きていた証(あか)しこそ、国犯法第22条の修正申告妨害の罪の規定であり、そこで用いられている”煽動”という文言だ。
 この煽動という言葉は、治安維持法の条文の中に、4ヶ所にわたって組み込まれている曖昧模糊とした意味合いの言葉である。同法第五条、第六条、第十一条、第十二条とダメ押しするかのように4つも組み込まれているものだ。
 その言葉が国犯法第22条の中にしっかりと残されていた。しかも、修正申告の妨害を禁ずる趣旨として用いられているのであるから唖然とする。
 もともと修正申告は、納税義務者の義務ではない。義務ではないものを勧めようが妨害しようが関係ないことだ。つまり、たとえ修正申告を妨害(申告の修正をなさざることを煽動)したとしても罪に問われる筋合いはないのである。それを、あたかも罪であるかのように規定しているのが、この国犯法第24条の規定である。虚仮威(こけおどし。見えすいたおどし。見せかけだけは立派だが、内容のない下らぬものごと-広辞苑)である。

 戦前は間接国税だけを対象にしていた国犯法に、戦後、直接国税をも組み込むことになった。ところが申告納税制をとることになった直接国税には、国犯法第14条の通告処分が適用できなくなった。
 そこでこの通告処分という強権的な処分に換わるものとして、法律の外で、つまり、税務運営の中で行政指導として行われてきたのが修正申告の慫慂ではなかったか。いわば暗闇の通告処分である。その実例を、「修正申告の落とし穴-号外2」で公表する。

(この項つづく)

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 ここで一句。

“詫びるのは影武者でなく自分だろ” -神奈川、黄昏小僧

 

(毎日新聞、平成26年3月16日付、仲畑流万能川柳より)

(現代のベートーヴェンも、リケ女の華も、よってたかって袋叩き。この二人、共に全人格を否定するようなバッシングが続いているが、本当にそんなに悪いのか? バッシングに負けないように、この二人にエールを送る。)

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