民主党政権の置き土産-偽りの査察調査-⑮
- 2013.12.10
- 山根治blog
平成5年9月28日、この日は私にとって生涯忘れることのできない日となっている。広島国税局の査察が、私の自宅と事務所のガサ入れをした日だ。この日を境にして、私の人生は大きく変ることになった。
まさに青天の霹靂(へきれき)、私は突然のことに周章狼狽して、血の気を失った。この日から早くも20年の歳月が経過した。
その後私は逮捕勾留され、刑事法廷に刑事被告人として手錠腰縄つきで引きずり出され、脱税の罪と付録のようにつけられた別件の罪で裁かれることになった。『冤罪を創る人々』で詳述したところである。
査察のガサ入れ、検察による逮捕勾留、刑事被告人と推移していくにつれて、私の中に、
という疑問の声が次第に大きくなっていった。
私の内なる疑問の声が、疑惑に変じたのは5年ほど前のことだ。全国から同じように査察に苦しめられている被害者からの相談が舞い込むようになり、税理士の再登録後に、その人達の税務代理人として各地の査察と直接接触するようになったからだ。
私が査察と検察とが狂っていると思いはじめたのは、彼らの取調べが余りにも異常だったからだ。
問答無用の、なんでもありの取調べが当然のようになされている。密室に閉じ込めて行われる拷問のような取調べ、虚偽の事実の自白の強要、修正申告(書面による自白)の強要、-法治国家とされている現在の日本において、想像を絶する蛮行が、国家権力の名のもとに堂々となされていたのである。
私が、ある全国紙の司法記者から取材を受けたのは、一年前の平成24年8月のことであった。私のブログを見て松江まで訪ねてきたのである。
この時私が話したのは、税務調査についての一般的なことがら、つまり、違法な税務調査が全国的に横行している事実についてであった。
ほどなく、私の名前が入った記事が、この新聞に掲載された。ところが、その後がタイヘンだったという。国税当局からの露骨な圧力があったというのである。
たしかに、国税当局にとっては宿敵ともいえる山根治の名前が、こともあろうに有名全国紙に載っただけでも許すことができないことだったのに違いない。その上に、ことあるごとに国税当局に噛みついている山根治ブログが新聞紙上で紹介されていたのであるから、尚更であったろう。
その後、この司法記者と何回か会って話をするうちに、私の中にこの若い記者に対する信頼感が芽生えてきた。その結果、査察と検察の具体的な蛮行について話をし、記事にしてもらうことを思いたった。被害者である、脱税の刑事被告人の了解をとって、直接、当事者に会ってもらうことにしたのである。
予定稿ができたのは、平成25年1月のことであった。しかし、実際に新聞紙上に載ることはなかった。新聞社の上層部からストップがかかったようである。
考えてみれば、この記事は国税と検察の前代未聞のスキャンダルを暴くものだ。常日頃、記者クラブを通して国税と検察から内部情報を入手してメシの種にしている新聞社だ。記事として出したくとも、出すことができないものであったろう。国税と検察の逆鱗に触れると、記者クラブを通しての情報の入手が難しくなるだけではない。国税も検察も、最強の暴力集団だ。どんな言いがかりをつけてくるか分かったものではない。検察と国税の、理不尽な闇の暴力によって潰された小沢一郎氏の例もある。新聞社の上層部が、身の危険を感じてビビったのは分からないでもない。
その後、私の認識が変ってきた。疑惑の域を越えて、確信の段階に至ったのである。
このようなにわかには信じ難い疑惑がふくらんできたのは平成24年12月のことだ。その後3ヶ月ほど認知会計の手法を用いて検証を重ねた結果、間違いのないことが判明した。疑惑が確信へと変った瞬間である。
このような私の認識の変化を背景にして、件(くだん)の司法記者と話をしたのが平成25年5月のことだ。被告人の刑が確定し、収監される直前のことである。
司法記者は改めてデスクを説得し、記事化することを約束した。この状況を踏まえて私は、ブログ記事(「やりたい放題の査察官(4)」参照)を公表している。
いまだこの新聞社は記事としてこの件を取り上げていない。私はこの記者に遠慮する訳ではないが、このたびの連載では、敢えてこの件について詳しく取り上げることはしなかった。ともあれ、20年に及ぶ私の『謎解きの旅』は終ったのである。
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ここで一句。
(バケの皮 剥がれる前に 大はしゃぎ。)
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