何を今さら
- 2010.10.12
- 山根治blog
大阪地検特捜部の前田恒彦検事が、証拠隠滅の疑いで逮捕された。その10日後、犯人隠避の疑いで前田検事の前の上司二人が逮捕された。単に身内の犯罪をもみ消そうとしただけではない、検察が組織的に冤罪を創り出そうとしたというのである。「あってはならないことだ」
「前代未聞」
「言語道断」連日のように、新聞・テレビなど既成のマスコミは大騒ぎを演じている。私は自らの体験(「冤罪を創る人々」参照)として、検察のデタラメ体質を知悉しているだけに、何を今さら騒ぎ立てるのか、鼻白む思いである。何よりも、これまでそのような検察の片棒をかつぐことに汲々としてきたマスメディアが、自分達の反省を全くしないままに騒いでいることに強い異和感を覚える。
厚労省の現職女性局長の村木厚子さんが逮捕されたとき、鳴り物入りで大騒ぎをしたのは誰であったか。検察のリーク情報を検証さえしないで、あることないことをタレ流して村木さんの名誉を傷つけ犯罪者扱いにしたのは誰であったか。マスコミは前代未聞の不祥事であるとして検察を糾弾する前に、自らのいいかげんな報道姿勢を反省し、真っ先に村木さんに対して謝罪すべきではないか。(「048 マスコミ報道の実態」参照)
村木さんが逮捕された直後、彼女の下で働いていた知人の女性から電話を受けた。厚労省の中からひそかに伝えようとしたものだ。
-気丈な知人が初めて見せた涙ながらの訴えであった。このような人に対しても検察はもちろんのこと、マスコミもしかるべき釈明をし謝罪する責任があるのではないか。
日本の検察は専制君主のようにこれまで勝手気ままに振るまってきた。この人達は、国民の生殺与奪の権限を握っているとでも錯覚している。どのようなことをしようと許されると思いあがっているようだ。
このたびのデータの書き替えなど氷山の一角ではないか。身内の不祥事についても同様であり、明確な形で表面化しない限り、仮に内部的に不祥事が判明していても握りつぶしてきたのであろう。大阪地検の検事であった三井環氏(「093 訴追システムの制度疲労と検察官のモラルハザード」参照)が内部告発した検察の裏金について、今もって知らぬ顔の半兵衛を決め込んでいるのがいい例である。ちなみに、同僚の三井環検事を取り調べ、およそ公訴に値しないものをもっともらしい犯罪に仕立て上げ、三井氏の口封じをするのに主導的な役割を果したのが、このたび逮捕された大坪弘道検事だったという。
証拠の隠ぺい・捏造・偽造(「047 捏造された勾留理由」参照)-これは前田検事を始めとする3人の検事だけの問題ではない。火のないところに煙を立てて犯罪をデッチ上げる、あるいは、自分達の不祥事は闇から闇へと葬ってしまう、このようなおぞましいことは、検察当局にあってはむしろ日常茶飯事ではないか。どこかの国の、哀れな独裁者と何ら変るところがない。
事件の関係者を脅したり騙したりすかしたりして、自分達が描いた勝手なストーリーに創り上げていく強引なやり方は、とりわけ経済事件では顕著である。私だけではなく、すでに多くの人が指摘しているところだ。長い沈黙を破って公表されたリクルート事件の当事者である江副浩正氏の言い分(『リクルート事件・江副浩正の真実』江副浩正著、中央公論新社)は、同じような体験(「冤罪を創る人々」参照)をした私には痛いほどよく判るのである。リクルート事件も冤罪事件であったようだ。
ここで問題なのは、その証拠があれば犯罪自体が成立しないようなものを把握して知っていたとしても、決して表に出そうとはしないことだ。隠ぺいである。つまり、検察に不利になる証拠は頑なに法廷の場に出そうとしない。自分達が創り上げたストーリー通りに関係者の供述を創り上げ、都合の悪い証拠は改ざんしたり、隠したりして裁判を押し進め、どんなことがあろうとも起訴した以上は有罪に持ち込まなければならないと考えているからであろう。まさに「冤罪を創る人々」そのものだ。
このたびの事件にしてもそうである。今年の1月27日に村木さんの公判が始まった時点でデータの書き替えの事実が判っていたという。これは、検察が描いたストーリーが根底から崩れることを意味する重大なことだ。検察は大きな矛盾を承知の上で敢えて公判を継続させ、無様(ぶざま)な無罪判決を突きつけられた。データの書き替え(犯罪のデッチ上げ)の事実が検察内部で明確に把握された時点で、村木さんの公訴を直ちに取り下げるべきではなかったか。前田検事の上司2人が、犯人隠避の疑いで逮捕されたのであるが、仮にその疑いが事実であるとするならば、冤罪であることを検察組織として十分に知っていながら、公訴をし公判を進めたことを意味する。これ自体が犯罪行為であり、証拠隠滅、犯人隠避をはるかに凌ぐ由々しきものと言わなければならない。
無辜(むこ)の人をワナにはめて犯罪人にしようとしたこと、しかも独占的に与えられた公訴権を振り回して、一人の善良な人間を社会的に抹殺しようとしたこと、これこそがこのたびの不祥事のポイントである。この事件は一人もしくは数人の検事の犯罪に矮小化してはならない。リクルート、長銀事件などの過去の事例を含めた検察全体の構造的な不祥事として捉えなければならないということだ。
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ここで一句。
(仲畑流万能川柳欄を読みはじめてから6年余り、1日18首として4万首ほどの句に目を通したことになる。洒落を解する見知らぬ友との無言の会話、至福の時である。)
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