100年に1度のチャンス -21

 先に挙げた4つのキーワード、

+工業立国

+貿易立国

+大量消費

+食料輸入

の外に、日本社会において当然のように考えられている大前提として経済成長があります。

 このところ、日本経済新聞のような経済紙だけでなく、一般紙においても経済マターは一面に取り上げられることが多くなってきました。ことに、昨年12月時点のGDP速報値(四半期)が、年率にして12.7%と、石油ショックの時以来35年ぶりに2桁のマイナスに転じたことを受けて、各メディアは大騒ぎを演じています。パニック状態と言ってもいいかもしれません。

『日本の国が健全な国家であり続けるためには、経済が成長していくことが不可欠である。成長率がマイナスになるなどトンデモないことだ、しかも13%弱と2桁ものマイナスになるようだと日本経済は破滅に向って突き進んでいくことになる。』

 - 多くの経済学者、評論家、政治家は口を揃えて喚(わめ)いています。経済の成長率がプラスになることが善で、マイナスになることは悪であると思い込んでいるようです。いわば、経済成長神話とでもいったものがこの人達の心の奥底にこびりついているからでしょうか。

 果して経済は成長を続けなければならないものなのでしょうか。あるいは、そもそも経済成長なるものは、国家社会の目標とすべきものなのでしょうか。私は疑問に思っています。
 このような素朴な疑問を発すると、

『何を馬鹿なことを言っているんだ』

とか、

『豊かな社会生活を送ろうと思えば、経済の裏付けが必要だ。経済が成長していかない限り国民の生活はジリ貧に陥ることになる。経済成長が必要なことは議論の余地がないほど明白だ』

とかの反論があちこちから飛んでくるのは必定(ひつじょう)です。
 あるいは、私個人に対しては、

『会計士のブンザイで、一国の経済を論ずるなど僭越(せんえつ。自分の身分・地位をこえて出過ぎたことをすること、-広辞苑)である。財政とか経済もロクに知らないクセに生意気だ。』

といった、キツーイ一発をかませられるかもしれません。

 たしかに私は一介の会計屋にしかすぎませんし、経済学にしても今から40年以上も前に少しかじった位のもので、その意味では専門家ではありません。しかも、大学を卒業して直ちに就職をする自信がありませんでしたので、軽い気持ちで大学院に進学、理論経済学を本気になって勉強しようと思っていたのですが、案の定、能力とお金の不足から中退を余儀なくされた、いわば“学者くずれ”なのです。
 しかし、経済学の研究から離れたとはいえ、会計実務をこなしながらも一国の経済、あるいは世界の経済についての関心は常に持ち続け、片時として私の脳裡を離れたことはありません。ことに、会計士の登録が一時的に抹消され、会計士としての仕事ができなくなった5年前、その時に思いついた認知会計、更にそれを発展させた会計工学を用いれば経済全体の姿を明確に把握できるのではないかと考えるに至っています。

 会計工学の視点から一国の経済を見すえた場合、経済学者とか経済アナリストなどが通常議論している経済の姿とは全く異なったものが浮んできます。たとえばGDP(国民総生産)を例にとってみますと、この概念がいかに観念的で空疎なものであるのか明らかになります。真実の国の経済力(国力)を表現しているものではないということです。
 経済成長率というのは、とりもなおさずこのGDPの伸び率のことですから、もともとのGDPが怪しげなシロモノであるとすれば、それが大きくなろうが(プラス成長)、あるいは小さくなろうが(マイナス成長)何の関係もないということになります。
 このように考えますと、経済成長神話は、GDPが国の経済力を示す正しい指標であると思い込んでいることから生じた幻(まぼろし)であることが判明します。

(この項つづく)

 ―― ―― ―― ―― ――

 ここで一句。

“投げ出しが 続いたあとに しがみつき” -東京、上田和宏。

(毎日新聞、平成21年2月12日号より)

(しがみつき 二世三世 濡れ落葉。 濡れ落葉 酒にからまれ 千鳥足。 千鳥足 無免許運転 麻生丸。)

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