122 安全弁の構築と点検

***一.安全弁の構築と点検

一、 マルサと検察官の無謬神話は単なる幻想であった。考えてみれば、当然のことである。神ならぬ身で、完全無欠ということはそもそもありえない。誤ることがあるからこそ、人間であるともいえよう。

二、 マルサも検察官も、共に国民に対する生殺与奪の権限を有する暴力装置であるだけに、権限の行使に誤りがあってはならない。建前としては当然のことである。
しかし、これら暴力装置はこの建前にこだわる余り、現実に誤りが発生しても軌道修正をすることなく、対内的及び対外的にその誤りを隠蔽し、糊塗することを敢えて行なった。
私の場合、まずマルサのガサ入れがなされた時点で、強制調査の着手が誤りであったことに、マルサの人達は気づいていたはずである。私が多くの反証を提示していたからだ。少なくとも私を直接尋問した藤原孝行査察官は十分に分っていた。
国犯法の告発は、強制調査の着手後、半年か長くとも一年以内にはなされるのが通常である。
それが、私の場合、2年4ヶ月もの間告発されることがなかった。国税内部で異論があったであろうし、検察との事前折衝においても告発に関して検察内部で慎重論があったのであろう。

三、 着手から一年10ヶ月が経過した平成7年7月頃から、マルサが告発に向けて再び動き出した気配がある。ガサ入れ時に、大木洋と共に陣頭指揮をした松田憲磨(統括国税査察官)が、防府税務署長から告発の決裁権限を持っている本局の査察管理課長に転任しているからである。
私の意を受けて、国税庁長官に対する抗議書を国税庁査察課長の石井道遠に面談の上で手交し、その後も後任の国税庁長官に抗議しつづけた岩本久人参議院議員が、同年6月の国政選挙で落選し、国会議員の肩書が外れた時期であり、同時に、税務時効が10ヶ月先に迫っていた時期でもあった。国税庁と広島国税局の内部で、一体どのような話し合いが行われたのであろうか。知りたいものである。

四、 その後、松江地検は、事前に私から事情聴取をすることなく、いきなり逮捕するに至った。
公正証書原本不実記載罪という別件での逮捕であったが、中島行博検事の取調べは、もっぱら本件であるマルサ事案に集中した。
中島検事は取調べのかなり早い段階で、私が嘘を言っていないことを確認し、検察当局が誤った捜査をしていることに気づいていた。すでに累々記述したところである。
この段階で検察は引き返すことができたはずだ。しかし、いったん動き出した組織の歯車は、中断することなく回り続け、数多くの証拠を捏造してまで立件に踏み切り、私を断罪した。
捜査取調べにあたった12人の検察官のうちの何人かは、冤罪であることを十分に知っていた。少なくとも40日間にわたって私を直接取り調べた中島検事は、私の無実を信じていたと言ってよい。

五、 裁判が始まってからも、検察は、何回か引き返すことができたはずである。法廷におけるほとんどの証言が、検察官の作成した偽りのストーリーに反するものだったからだ。

六、 平成11年6月22日、私のもとに一通の書状が届いた。畏友H.Y氏からであった。私が第一審の結果を受けて発信した文書に対する返信である。
H.Y氏は、東京大学経済学部出身の、同世代かつ同郷の友人である。同氏の手紙から引用する。

「二〇数億円、三〇〇日、とても信じられないような訴訟事件に巻き込まれ、どれほどご苦労をされたか、私には想像もつきません。ただ、私は通産省にいましたが、私は官僚組織を信用していない人間の一人でしたから、山根さんの言っておられることをかなり想像できます。官僚という人間は組織の中に隠れて組織や国家の名において仕事をする(良いこともやらなくてもよいことも)、そして間違ってもそれを決して認めない、間違っても決して個人は損も傷つきもしない、従って、いつでも強行派が組織の主流派になる。これは日本の明治以来の官僚の本質であり、戦前の軍部官僚、戦後の経済官僚、最近の大蔵・建設官僚もみな同じです。通産省は比較的良い方でしたが、技術系の私からみると、どうして、もっと率直に議論して問題を解決しないのかと、トップに近くなればなるほど、最近の政治行政の裏が見えて、それに対する反発が強くなっていました。大蔵・建設・郵政・農林・厚生・文部などの官僚とは仕事の上で何度も角をつき合わせましたが、いつも、どうしようもないなと感じていました。検察・国税とはつき合いがありませんでしたが、推してしるべしです。」

七、 長年、キャリア官僚として、官僚組織の内部にいたH.Y氏の言葉は、ずっしりと重く迫るものだ。

“官僚という人間は組織の中に隠れて組織や国家の名において仕事をする(良いこともやらなくてもよいことも)、そして間違ってもそれを決して認めない、間違っても決して個人は損も傷つきもしない。”

困ったことである、民間ではおよそ考えられないことである。
行政改革が叫ばれてからすでに久しいが、百年河清を待つに等しい。表面的な機構いじりに終止している改革は、真の改革にはなりえない。官僚の意識改革にまでふみこんだ抜本的な改革を本腰入れて取り組むべき時が来ているようである。

八、 中でも、国民の生命・財産に対して、法の名のもとに直接介入できる暴力装置としての機関については、その見直しは焦眉の急であろう。
警察と並んで国税当局は、暴力装置の最たるものであり、検察はその頂点に位置する。
これらが暴走をはじめたら、国民としてはたまったものではない。暴走を未然に防ぐことが必要であると同時に、仮に誤って暴走が始まった場合でも可及的速やかにブレーキがかかるようにしておかなければならない。改めて言うまでもないことである。
私の場合、暴走が始まったものの、それぞれの組織としては、何度となく踏みとどまってブレーキをかけ中断する機会があった。
しかし、一度もブレーキがかけられることはなかった。暴走をストップさせる安全装置が欠如していたのである。あるいは建前としての安全装置はあったかもしれないが、現実には機能することはなかった。綱紀が緩み、明らかな制度疲労が起きていたのである。

九、 国民にとっては迷惑この上ないことである。
暴力装置の安全弁を常にチェックし、ブレーキが適正に機能するようになっていなければならない。ブレーキ装置を常に点検し、壊れた部分があれば補修し、磨耗した部品を取り換え、錆びついた垢を取り除く必要がある。
暴力装置の安全弁は、それぞれの組織の内部に必要であると同時に、組織を離れた外部にも必要である。
国民による監視機構は、現在でも形式的には存在するものの、有名無実の存在となっている。実効性のあるチェック機構を早急に再構築すべきであろう。
強大な権限と権力を有するものは、それに相応する責任を負うべきことは当然のことであり、権限を逸脱して不法に権力が行使されたり、強大な権限をカサに犯罪行為がなされたような場合には、直ちにその実行行為者が排斥され、しかるべき責任が問われるようになっていなければならない。

一〇、誤りに気づいても軌道修正することなく押し進め、私の場合のように意図して冤罪を創り出すことに再び検察当局が手を染めるならば、税吏をみつぎとりとし、銀行員を高利貸として蔑視した作家山本夏彦の言葉を引きついで、検察官を岡っ引きとして蔑視せざるをえないことになろう。

 

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