099 クサイ飯の実態
- 2005.05.31
- 引かれ者の小唄
***6.クサイ飯の実態
一、 俗に、ムショ(刑務所)の飯のことをクサイ飯といい、投獄されることをクサイ飯を食うという。
私が入っていたのは、松江刑務所拘置監で、刑務所ではない。ただ、看守長から聞いたところでは、私のような未決囚も、受刑者と同じものを食べているということであるから、私も、ムショのメシを食べたといっていいであろう。
二、 私は、291日の間勾留されていたのであるから、このムショのメシなるものを、都合、872回食べたことになる。
三、 主食は、米7割、麦3割の麦メシ。一週間に一度、土曜日には一食だけコッペパン。時おり、うどん、そば、ラーメン、そうめん、スパゲッティとなる。
一言でいえば、メシがうまい。クサイ飯どころか、うまいのである。普段、わが家で食べているメシに決してひけをとらない。コッペパンにも感心した。小学生の頃給食で食べたコッペパンとは似て非なるものであった。これまたうまかった。
ただ、うどん、そば等のメン類はいただけなかった。コシが伸び切っていて、メン同士が団結をし、糊状に結束していた。ゆでてからどれ位経ったら、あのような状態になるであろうか。
四、 副食もなかなかバラエティに富んだものであった。栄養バランスも行き届いていた。
大学時代、私は5年間寮生活をしている。日本が高度経済成長に入る前であり、日本全体が貧しく、私達寮生も、一部の者を除いて、つつましい生活を送っていた。
寮食と呼んでいた寮の給食にも、私は十分満足していたのであるが、この寮食と比較しても、ムショの食事は格段にうまいし、良質であった。
ただ難点が一つだけあった。ゆっくり食べることができないのである。10分か15分位で、空下げが始まり、房内から引き上げられてしまうのである。
五、 ご飯入れと汁入れは、ポリプロピレン製であり、それぞれ、上の径15cm、下の径10cm、高さ8cm、及び直径15cm、高さ6cmの椀であった。副食は、ポリプロピレン製の平らな丸い皿に盛ってあった。
朝昼晩と、それぞれ7時15分、11時50分、16時30分、検視窓を通して差し入れられた。休日は起床が7時30分と平日より30分遅くなる関係で、休日の朝食は7時45分であった。給仕は、衛生夫と呼ばれる受刑者が、看守の監視の下に行っていた。衛生夫は、看守のことを「センセイ」と呼んでいたのが印象に残っている。
六、 私は、ノートに食事の内容を具体的に記録した。
― というように、ほゞ毎食記録に残したのである。
ところが、これもノート検査にひっかかり、抹消までは要求されなかったものの、今後は余り詳しく記録しないように看守から注意を受けた。
しかし、一週間位自粛してはいたが、書きたい気持やみがたく、再び記録を始めた。このため、以前にも増して詳しい記録が残ることとなった。
七、 平成8年6月12日、平成8年度の嗜好調査票が配布された。今後の給食の参考にする為に実施する旨が記されていた。
主なメニュー80種余りが記されており、この中から、好きなもの3つ、嫌いなもの3つを選んで、それぞれ○と×の印をつけるように指示されていた。
私は、オムレツ、魚のみそ煮、カレーの3つに○印をつけ、×印はないと回答した。
ちなみに、青魚のみそ煮は絶品であったし、カレーは、一流のカレー専門店並のものであり、オムレツに至っては、東京の一流ホテルの朝のバイキングで目の前でシェフがつくってくれるオムレツをしのぐものであった。
以下、主なメニュー80種余りを列挙する。
八、 ムショの飯、一日3食の予算は、概ね550円と推計された。
当時の府中刑務所の場合で、一日519円92銭であり、松江刑務所の場合、地域格差、供給量格差を考慮して、5%強上乗せした。
尚、府中刑務所の数値は、平成8年9月18日に入房した、同年9月26日の週刊宝石の次の記事による。
九、 食事の後しまつは、次のように定められていた。
食事が終ると、食器を揃えて、検視窓の下にある台にのせる。これを空出(からだし)といった。
食器の揃え方は決っている。一番下に飯入れのフタを置き、つぎに大きい皿から順にのせていき、椀になる。椀も大きい順に重ねていき、一番上は一番小さい椀ということになる。
残飯がある場合には、一つにまとめて、一番上にのせる一番小さな椀に入れる。
ビニール類(たとえば、ビニールパック、パンの袋、ヤクルトジョアの空瓶、ミニチーズの銀紙など)は、残飯と一緒にしないで、一番下の皿に入れて出す。
食器の片づけが終ると、箸を洗い、フキンでふく。次にフキンを濡らして小机の上をふく。フキンを水道でよく洗い、しぼって、検視窓の下の台の上に、雑布と並べてひろげて干す。
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