倉田まり子事件の真相 -その3
- 2005.01.18
- 山根治blog
中江滋樹氏については、服役後、いくつかのマスコミが思い出したように、「あの人は今」のような形で取り上げています。一方的な興味本位のアングルからの報道ではありましたが、中江氏自身が倉田まり子さんについて語ることはなかったようです。マスコミに対する不信感が大きかったのでしょう。
今は亡き(と私は思っていますが)中江氏のためにも、あるいは現在芸能界を引退して家庭の一主婦におさまっている(と私は思っています)倉田まり子さんのためにも、中江氏の生の声を紹介することにします。
中江氏が逮捕されて東京小菅(こすげ)の拘置所に収監されているとき、私達は、頻繁に手紙のやりとりをしていました。大半が、進行中であった刑事裁判の、特に経理数字に関連する打ち合わせでした。その合い間に、両親とか、幹部社員など、中江氏が気にしている人たちについても、しばしば言及がなされていました。
倉田さんについても、申し訳ない気持ちが滲み出るような文面が残っています。
・・・・・・
本当に申し訳なく思っています。自由になった時には、この償いをしなければいけない人の一人だと思っています。」
(昭和61年6月4日付手紙より)
この手紙は便箋10枚にも及ぶ長いもので、倉田さんの件に関しては、テレビ朝日のM専務が関係するプロダクションがどのようにかかわっていたのか詳しく記述されており、中江氏の無念の気持ちがうかがえます。
中江氏は釈放後、倉田さんに会ったかどうか分かりません。ただ、手を尽くして倉田さんを捜し出して会おうとしたらしいのですが、倉田さんが会うのをかたくなに断ったと聞いています。
どのような事情があろうとも、訳の分からないままに悪役に仕立てられて、人生をメチャクチャにされたのですから、倉田さんとしては当然のことだろうと思います。
私は30年の会計士生活の中で、何人かの芸能界の人達と接する機会がありました。しかし、人間としての印象がいい人にはあまり出会うことができませんでした。
ブラウン管から受けるイメージと、実際の人物との落差が大きすぎる人がほとんどで、芸能人は男でも女でも、できることならあまり会いたくない人種に属していたのです。
倉田さんについては、中江氏のことがあるまでは、全く知りませんでした。メジャーではなかったし、私が芸能界にあまり関心がなかったからでしょう。
初対面のとき、私は意外な思いをしたことを覚えています。芸能人特有の華(はな)は感じられたものの、いわば芸能人臭といったものがないタイプの人でした。
お母さんと妹さんが同席し、中江氏を含めた5人の会合は東京プリンスホテルの一室でもたれたのですが、言葉の端々にお母さんと妹さんに対する思いやりが感じられ、それまでの人生を母娘3人肩を寄せ合って生きてきたことが感じられたのです。
私自身が戦争未亡人の母によって育てられた経験があるだけに、他人事とは思えませんでした。
その後、中江氏が同席することはありませんでしたが、倉田さんは一度も中江氏に対する恨みがましいことを口にしたことはありません。
真正面から人生を懸命に生き抜こうとしていた彼女のイメージは、20年経った今でも消えることなく、私の脳裡に残っています。
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ここで一句。
(偽物ではない本物、偽りの仮面ではない真の人間、出会ったときの喜びは格別のものですね。)
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