冤罪を創る人々vol.44
- 2005.01.11
- メールマガジン
2005年01月11日 第44号 発行部数:313部
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「冤罪を創る人々」-国家暴力の現場から-
日本一の脱税事件で逮捕起訴された公認会計士の闘いの実録。
マルサと検察が行なった捏造の実態を明らかにする。
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山根治(やまね・おさむ) 昭和17年(1942年)7月 生まれ
株式会社フォレスト・コンサルタンツ 主任コンサルタント
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●(第六章)権力としての検察 ― 暴力装置の実態
「5)基本構図の崩壊 ― 自滅」より続く
http://www.mz-style.com/item/201
五.検察官中島行博の生活と意見
1) 被疑者面前作成調書 ― 被面調書
一、 検察官が被疑者を尋問して作成する供述調書のことを、検察官
面前作成調書略して検面調書という。度々述べたところである。
考えてみれば、被疑者は全く同じ時間だけ、検察官と向き合って、
話しをしたり問答したりしているわけである。検察官が作成する検
面調書があるならば、被疑者が作成する調書があってもおかしくは
ない。
二、 私は小さい頃から人の話を聞くのが大好きであった。とりわけ
私と違った生活をし、異なった人生経験をもった人に接すると眼が
輝いたものである。
検察官中島行博の場合もそうであった。現職の検事なるものに接
したことが全くなかったのである。
もっとも元検事で弁護士をしている人種には、今まで4人だけ接
したことがある。ヤメ検といわれる人達で、どういうわけか私が知っ
ている4人全てについて、余りいい印象が残っていない。
民事に疎く、やたらに顧客の顔色をうかがう男であったり、闇世
界にどっぷりとつかり、その手先となって糊口をしのいでいる男で
あったりした。
中島行博との出会いは、もちろん私が望んだものでもなければ、
中島が望んだものでもなかった。
たまたま、私が極悪非道な会計士であり、中島が経済通の新進気
鋭の検事であったことから、二人の出会いが生じたのである。
三、 中島の一挙手一投足が私には新鮮であった。彼はまた自慢話が
得意で、私が合の手を入れると彼の話は際限なく続いた。
独房に放り込まれている私には話し相手がなく、その意味からも
中島はまことに貴重な存在であった。
検察官中島の取調べ自体は、概してうっとうしく、ときには胃の
痛むこともあったが、一方で、彼との話し合いの時間を楽しみにし
ているもう一人の私がいたようである。
四、 私は、主に松江刑務所取調室で40日の間、検察官中島行博と
接し、面談した。彼の話した内容は、ほゞ正確に私の獄中ノートと
彼の作成した検面調書に記されて残っている。
ノートと調書とを改めて読み返し、中島を中心にしてまとめてみ
ることにした。題して、「検察官中島行博の生活と意見」、公認会
計士であった私の作成になる、いわば被疑者面前作成調書、略して
被面調書といったところである。
ただ、この調書は、中島行博が私に語ったことのみをベースにし
ており、真偽についての裏付け調査は一切行っていない。
2) 経歴
一、 中島行博は、昭和31年4月、岡山県津山市に生まれ、高校時
代まで中国山地の津山ですごした。本名、中島行博。別に「イラ検
の熊五郎」ともいう。被疑者山根治が親愛の情をこめて奉った名前
である。
司法試験の受験に関して定評のあった中央大学法学部に進学し上
京、刻苦勉励の末、5回目で司法試験に合格し、司法修習生となる。
立派なものである。
その後直ちに検事の道を歩むこととなり、長崎地検を皮切りに、
新潟地検、東京地検を歴任し、私と出会った当時は、広島地検の検
事として主に経済知能犯を担当していた。
当時の松江地検には、脱税事件のような経済事犯を処理できる検
事がいなかったため、急遽広島地検にいた中島行博に白羽の矢が当
たり、マルサをてこずらせた一筋縄ではいかない主犯格の私を担当
することとなった。
身柄を拘束するために私の自宅にさっそうと現われた中島は、黒
ブチの眼鏡をかけ白い検察官バッジを背広の胸に光らせた、上背の
あるなかなかの偉丈夫であった。容貌は今一つであったが、もちろ
ん男は顔ではない。
尚、事務所職員の小島氏を逮捕尋問し、後に公判検事をつとめる
ことになった立石英生は、大阪地検堺支部から呼び寄せられている。
立石もなぜかまた、中央大学法学部出身であった。
二人共、検察内部ではつとに経済通として知られ高い評価がなさ
れていた。
(続きはWebサイトにて)
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●山根治blog (※山根治が日々考えること)
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「倉田まり子事件の真相 -その1」より続く
http://www.mz-style.com/item/202
・倉田まり子事件の真相 -その2
倉田さんは当時24歳。お母さんと妹さんと三人で暮らしていま
した。中江滋樹氏の依頼を受けて、私は都合4回彼女と会っていま
す。
マスコミが騒がしくなってからは、外で会うことができなくなり
ましたので、二人の弁護士と一緒に目黒の自宅に行ったことがあり
ます。マスコミが大騒ぎしている“豪邸”を自分の目で確かめたい
気持ちもありました。
東京目黒の路地の突き当たりのようなところでした。一応、門は
ありましたが、門と玄関までが1mもないような家で、豪邸と騒が
れていることとのギャップに戸惑ったことを想い出します。
20坪程しかない土地の上に、鉄筋三階建が建っているのですか
ら、どうしても門を作ろうと思えば、そのようにしかならないので
しょう。内部の間取りも推して知るべしで、母と娘2人の三人が、
つつましく暮らしていける空間以上のものではありませんでした。
倉田さんにしたら、芸能界で少しずつ売れ出したときでした。テ
レビ朝日を牛耳っている人物の芸能プロダクションからのスカウト
話は、魅力的なものであったに違いありません。
その上に、契約のいわば前渡金として7千万円の融資を受けるこ
とができ、小さいながらも親子3人が暮らしていける自宅が手に入
るのですから、倉田さんにとって願ってもないことだったのでしょ
う。
しかも、融資の返済については、テレビ局の超大物がバックにつ
いて仕事の支援をすると約束していましたので、全く心配する必要
のないものでした。
マスコミは、倉田さんが、“詐欺師”の中江氏の“愛人”である
と勝手に決めつけ、汚れたお金で自宅を建てたといって糾弾しまし
た。ヒドイものでしたね。
私は中江氏について、相場師であったとは思いますが、決して詐
欺師であったとは思っていません。私は中江氏の刑事裁判において、
いわば特別弁護人のような立場で、警視庁と検察当局が創り上げた
“詐欺の構図”を突き崩すために、多くの時間をかけ中江氏にかわっ
て会社の決算書の数字をもとにした弁明書を作成しました。
結果的には、中江氏は懲役8年の実刑が確定し、弁護側が敗れた
のですが、現在でも中江氏の詐欺罪の認定は誤りであったと信じて
います。証取法違反については、当初から中江氏も認めていました
し、私も弁解の余地がないと思いますが、詐欺罪だけは納得がいき
ません。
私の事件の場合もそうでしたが、マスコミは捜査当局が垂れ流す
“リーク情報”を十分に検討しないで、そのまま報道していました。
事件には全く関係のない一人の前途あるタレントを虚偽の報道に
よって血祭りにあげた訳で、今に至るも、倉田さんに対する謝罪の
言葉はどこからも発せられてはいません。
―― ―― ―― ―― ――
ここで一句。
“アメリカも妻もめったに謝らぬ” -仙台、もりつぐ
(毎日新聞:平成16年8月20日号より)
(検察もマスコミもそうですね。アメリカ、妻、検察、マスコミ、
-これらの共通点は、権力者。)
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