料亭「川崎」のおかみ
- 2004.12.28
- 山根治blog
中江滋樹氏はいくつかの会社を経営するかたわら、個人的にも相場を張り、しっかり稼いでいたようです。
株の取引によって、一日に億単位の利益を出すことも珍しくなかったので、年間ではかなりの所得だったようです。現在と違ってその頃は、株の取引による利益は原則として非課税でしたから、確定申告をするにあたって私の方から株の利益について問い質すこともせず、中江氏からも部分的には話があるものの全体の話はありませんでした。
中江氏は政治家と付き合うようになってから、話し合いの場所としてよく料亭を使っていました。最もよく利用していたのは、赤坂の「川崎」という料亭でした。
私も「川崎」で何回か中江氏と飯を食っています。私を料亭に呼び出すのは、何か特別の打ち合わせのためではなく、息抜きの気楽な話し合いのためであったようです。数年前までは、京都の山科のアパートの一室(これがスタート時点の会社の所在地でした)で、二人してインスタントラーメンをすすっていたのですから、東京の一流料亭を自由に使えるようになったことを私に自慢したかったのかもしれません。
今でも東京の常宿として利用しているホテルが、この料亭から徒歩で10分位のところにありましたので、私はテクテクと歩いて行ったものです。ここにやってくる客の大半は、運転手付の車か、あるいは黒塗りのハイヤーを使っていたでしょうから、汗ばみながら歩いてやってくる客は珍しかったのでしょうね。
その上、背広は着古した既製服でしたし、靴は安物しか履いたことがありませんでしたので、「川崎」の下足番の人はさぞかし驚いたことでしょう。ネクタイに至っては一年間に一本あれば十分で、外見は絵にかいたようなダサイ田舎者だったのでしょう。
もっとも、中江氏は、私に輪をかけた状態でした。髪とヒゲは伸び放題でボサボサモジャモジャでしたし、たいていスリッパか下駄を履いてやってきました。革靴を履いてくることもありましたが、カカトの部分を折り曲げて、スリッパのようにしていましたね。
中江氏と二人で、この料亭で何回か食事をしているのですが、どんな料理がでてきたのかほとんど覚えていません。二人とも話に夢中になると、料理も酒もどこかへ行ってしまうのでしょうね。
ただ一つだけ鮮明に覚えているものがあります。それは、ふかした皮付きの里芋で、小さな竹のザルに入れて出てきました。
私たち二人の席には、必ず70歳半ば位のおかみさんが付き、世話をしてくれていました。中江氏は20歳半ばすぎ、私は30歳後半でしたので、おかみさんから見れば、子供か孫のような存在だったのでしょう。
私達二人の他愛もない話に静かに耳を傾けながら、皮付きの里芋を一つずつ丁寧に剥いて食べさせてくれました。感動しましたね。
中江氏から、この老おかみのことをかなり詳しく聞いていたからでしょう。
この人は、自民党の大物政治家で衆議院議長にまでなったF.N代議士を、金銭面を含めて支え続けた女傑で、その気風に惚れ込んだのでしょう、社会の底辺から総理大臣にまで上り詰めて今太閤と持て囃された代議士がこの料亭をよく利用していました。
古き良き時代の日本女性の一つの典型でした。背筋を伸ばし、和服をピシッと着こなしている人で、“しゃっとした”という形容にふさわしい女性でした。
バブル崩壊後、どのような事情があったのか分かりませんが、料亭「川崎」は取り壊され、現在はその跡地にビルが建っています。
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ここで一句。
“気が合うね私が合わせているからね” -東京、日向の母;;;rr;(毎日新聞:平成16年8月15日号より);;;;
(商売とはいえ、ジャリのような二人をよくぞもてなして下さいました。深謝。)
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