A03 ハニックス工業 事件の真相 3
- 2004.12.02
- 経済事件ノート
****2. マルサの告発と自決
平成5年5月26日、新聞各紙は、東京国税局が同社と同社長を脱税の嫌疑で東京地検に告発したことを一斉に報じた。
三日後の5月29日、同社は東京地裁に会社更生法の適用を申請した。倒産である。
東京証券取引所は、同社株を直ちに、店頭管理銘柄に移した。
最高値で1万7,500円をつけ、直前までも、2千円台をキープしており、倒産の前日は2,480円をつけていた株価は急落し、100円を切る状況となった。
店頭登録銘柄とはいえ、株式が公開されている中堅企業である。小型建機の分野で高いマーケットシェアを有し、233名の従業員をかかえ(平成4年12月末日現在)、年商も300百億円を超えている会社である。
株価も倒産直前まで2千円台を維持していたいわば優良会社が、脱税報道の三日後に何故倒産に追い込まれたのか、外部からは不思議としかいいようのないものであった。
週刊誌に掲載された同社の副社長のB氏(社長の実弟)のインタビュー記事を読むことによって、私の疑問は一応氷解した。『社長がああいう最後を遂げたのも、あの脱税報道が直接の原因で会社が倒産に追い込まれたからです。
たしかに、近年は不況の影響で、会社が抱える問題もありました。
ただ、それは工場の稼働率が低いとか、採算が落ちているとか、どこの会社でも抱えている問題で、それだけでは決して倒産につながるようなものではありませんでした。4月以降も、関連会社が倒産するなど厳しい状況でしたが、その処理も済んでいました。
ところが、それが脱税報道を境に、150億円あった現金も銀行から預金閉鎖され、ファイナンス会社からの融資もとめられて手の打ちようがなかったんです。』(週刊新潮、平成6年1月13日号)
手許資金が銀行によって封鎖凍結され、他からの融資も断られたために倒産、 ― 脱税報道後三日間に起った修羅場の状況が眼前に浮んだ。
私の疑念は一応解けたとはいえ、今一つ釈然としない。今まで、悪質な脱税の告発が引き金となってすぐに倒産したケースが、店頭登録を含む株式公開企業の中では全く思い浮かばなかったからである。
なぜ銀行は150億円もの預金を封鎖したのか、脱税で告発された会社に対して、銀行がこのような強硬手段に打ってでることは尋常なことではない。
追徴課税は、「重加算税を含め17億円強」(日本経済新聞、平成5年5月26日付)であり、手許資金150億円といえば、追徴課税の10倍近い金額である。
おかしい。脱税報道だけで銀行がこのような行動をとるはずがない。何か別の要因があるはずだ。この疑問は最近に至るまでしこりとなって残り、胸の奥につかえていた。
同年6月18日、東京地裁によって保全管理人として永井津好弁護士が選任され、保全管理命令が発令された。
同年12月22日、会社は破産宣告を受ける。破産管財人は表久雄弁護士。
同年12月24日、午後4時30分ごろ、H社長は東京国税局を訪れ、「一階ロビーで脇差し(刃渡り約28センチ)をカバンから取り出すと、いきなり左胸をひと突きして倒れた。」(同年12月25日付、読売新聞)『社長のバッグからは、東京国税局長宛の抗議文が見つかった。社用便箋二枚に手書きで書かれた文書には、荒々しい筆跡で、
〈おのれ国税!!無念なり国税!! 全く無実のものを おのれ達の出世や 部門実績のイゴ(ママ)の為に 全く無実の我が社を 脱税の罪をかぶせ その為多くの社員 取引先 株主 又全国にまたがる関連会社を悲惨絶望のドン底につき落した! (中略)このことを一死をもって世に告発し死を以って断罪する!!〉
― と記されていた。』週刊新潮、平成6年1月13日号) 週刊新潮は更に、『会社再建を果たせぬまま、ハニックス工業は去る12月22日に破産宣告 ― 。抗議文とともに、H社長が翌23日付で関係先に向けて書いた遺書の最後には「武士道とは死することと見つけたり」と『葉隠』の言葉が引用されていた。』と記す。
これが一連の経緯である。
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