A02 ハニックス工業 事件の真相 2

 

***(2)倒産と死に至る経緯

****1. 店頭公開とマルサ

 東京国税局のロビーで、恨みの遺書を胸にしのばせて、壮絶な自害をして果てたオーナー社長H氏、 ―

 私は、この事件の全容を把握するために、早速、新聞各紙を買い求めて関連記事を切り抜くと共に、ハニックス工業関連の情報を集めることにした。

 その結果、およそ全体の構図が判ってきた。

 H氏は、昭和9年4月12日に新潟県燕市に生まれ、同32年3月中央大学法学部を卒業。同39年5月、日産機材株式会社を設立。同43年4月にハンドーザー工業株式会社、平成2年3月にハニックス工業株式会社とそれぞれ商号変更。その間、昭和40年の手押し式ブルドーザー・ハンドドーザーの開発に始まり、昭和46年の掘削機ミニバックホー、昭和50年の全旋回ブームスイング式ミニバックホー、昭和58年の車幅内全旋回ブームオフセット式ミニバックホーの開発と続き、会社の業績は順調に推移し、小型建設機械の生産において高いマーケットシェアを誇っていた。



 順調な業績を背景にして、ハニックス工業は、平成2年7月27日、株式を店頭公開。

 公開時に、1株8,390円で、250万株の公募増資を実施。



 株式の公開直後に、同社役員四人が、所有していた個人名義の同社株を売却。通常、株式の公開直後は人気銘柄の場合はとくに、買いが殺到する中で売りがでてこないことが多く、呼び値だけ飛んで売買がなかなか成立しないことがあり、幹事証券会社のアドバイスを受けて証券会社もしくは会社関係者の持株の一部を市場に放出することがある。初取引を成立させ、その後の株価の乱高下を防止するためである。この時に放出される株式のことを、俗に”冷し玉(ぎょく)“といっている。

 実際に同社の店頭市場での初値は1万6,600円であり、その後公募価格の2倍をゆうに超える1万7,500円の株価が記録された。

 

 同3年3月、冷し玉の売却によって生じた売却益について、四人の役員は個人所得として確定申告。



 その後、会社に対して東京国税局による税務調査が実施された。任意調査である

この時、社長と国税当局の間には、ある合意文書が交わされていたという。



 副社長のB氏は、週刊誌のインタビューに答えて次のように述べる、 ― ;;;quote;『こちらには、全く脱税したという認識はありませんでした。しかし、国税もいったん手を上げた以上、ただで下げられなくなったのでしょう。そこで折半痛み分けということにするから、一部だけ課税するということになりました。社長もこれで事態が収まるなら、という思いで国税に同意する文書を書いたのです。ところが、二、三ヵ月後、国税は突然、強制査察に入りました。そしてその文書を示して、脱税を認めているじゃないかと責められたのです。』(週刊新潮平成6年1月13日号);;;; このように、事態は急転する。国税当局の主張を認めた文書が手渡された後、調査はそれまでの任意調査から、国税犯則法にもとづく強制調査に切り換えられた。マルサである。

 税務調査を終えることを目的として作成された妥協の産物であるはずの文書が、驚くべきことに、脱税の事実を自白した動かぬ証拠にすり替えられたのである。

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