司馬遼太郎と空海 -その9

 空海のルーツについて、作家は空海=蝦夷説に固執している訳ですが、真実その通りであったとするならば、功成り名をとげた55才の空海が、自らのルーツをカムフラージュするために、敢えて先祖を悪しざまに罵っていることになります。

 

 ルーツの真偽はともあれ、作家は空海の主要な作品を丹念に読み込んでいるようですので、以上のようなことを十分に承知したうえで、「小説」の出発点に「空海=蝦夷」説を据えたのでしょう。

 ミカドによって平定され、人質として都に連行されてきた蝦夷の末裔が、平城、嵯峨、淳和、仁明の四代にわたるミカドに対して、いわば仏門の師として君臨し、その影響力を巧みに行使したこと、つまり、精神世界における王者として、四人のミカドを自在に使いこなしたこと、-これは、被征服民の立場からすれば、誠に痛快なことであり、小説に面白さを一段と加えるものでしょう。

 地方豪族の一員で、非征服民の末裔である「佐伯直(さへきのあたひ)」が勉学精進の末、仏法者空海として天下に名をなし、時のミカドとも直接交流し、仏法に帰依せしめたというのです。



 空海以前にも、時のミカドに重用され、大きな影響力を行使した仏法者は存在しています。例えば玄ボウとか道鏡などですが、二人とも晩年がよくありませんでした。

 玄ボウは、聖武天皇の生母である藤原宮子の四十年にも及ぶ病気(おそらく、ウツ病)を快癒せしめたことが機縁となって、聖武王朝の中枢にまで入り込んだ僧侶ですし、道鏡は、聖武天皇の娘である孝謙上皇(後に称徳天皇)の看病をしたことから彼女の寵愛を受け、太政大臣禅師に任ぜられ政権を掌中にした僧侶でした。



 二人とも生臭い政治に直接かかわったからでしょうか。君側の奸を排除することを旗印にして、玄ボウに対しては、藤原宇合の息子である広嗣が乱を起し、道鏡に対しては、藤原武智麻呂の息子である仲麻呂が乱を起しました。これらの反乱そのものは失敗に終わっていますが、玄ボウ、道鏡ともに支えになっていた保護者を失うや、前者は、筑紫の造観世音寺別当に配流され、後者は下野の造下野国薬師寺別当に左遷されています。

 二人に共通しているのは、仏法者の立場で、政権の中にいる女性に取り入り、政治そのものに深くかかわったことでした。

 この点、空海は女性に取り入ったり、政治に直接かかわったりしていません。62年の仏法者としての生涯を完結し、1200年後の今日まで弘法大師空海上人として、多くの人の讃仰の的となっているのも、故なしとしないでしょう。



 作家が、空海を、生涯不犯ではなかったとしたり、山っ気があり世間的才覚にたけており、ずるがしこい人物であったとしているのは、人間空海を作家の冷徹な眼が直視した結果であって、仏法者空海を少しも傷つけるものではないことは、すでに述べた通りです。

 この春、空海の直筆に接した衝撃に促されるようにして、作家の導きをもとに人間空海を辿ってきた三ヶ月間でした。それは又、今まで天平5年(出雲国風土記の勘造の年)を中心としたいわゆる万葉の時代からなかなか抜け出すことのできなかった私の興味範囲を広げる役割を果たしてくれました。

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