日本神話のヘンシン-2
- 2013.07.02
- 山根治blog
日本神話の4回目のヘンシンは、仏教伝来に関連する。
欽明天皇13年10月に、百済の聖明王が、
+釈迦仏(しゃかほとけ)の金銅像一軀(かねのみかたひとはしら)
+幡蓋若干(はたきぬがさそこら)
+経論若干巻(きょうろんそこらのまき)
を献上している。日本書紀が伝える仏教公伝である。1.の釈迦仏の金銅像が真っ先に置かれているのは、日本に入ってきた仏教が、偶像崇拝に変容した仏教であったことを意味する。
ゴータマ・ブッダ(釈迦牟尼)が始めた原始仏教には偶像崇拝はない。開祖ブッダの没後その像がきざまれ崇拝・信仰の対象となっていくが、ブッダ自身が信仰の対象になった状態の仏教が日本にもたらされたのである。
釈迦仏の扱いをめぐって異を唱えたのは、物部尾輿(もののべのをこし)と中臣鎌子(なかとみのかまこ)。この2人は、日本古来の神を国神(くにつかみ)とし、釈迦仏を蕃神(あたしくにのかみ)と考えていたことが日本書紀に伝わるところだ。
日本書紀以外では、「他国神」(元興寺縁起)、「仏神」(高僧伝、康僧会伝)、「胡神」(魏書、釈老子)、「戎神」(晋書、芸術志)と記されている。
これらの伝承は、釈迦仏を「神」としてとらえていたことを意味し、仏が在来の神とそれほど異質のものとして受け取られなかったことを示している(岩波文庫版、日本書紀(三)P.298~P.301)。
その後仏教が日本に定着していくにつれて、在来の神々と融け合っていく(神仏習合)ことになるが、もともと伝来された当初から水と油のような関係でなく親和性があったのである。
仏とか菩薩が、衆生救済のために日本の神々の姿になって現われるとする、「本地垂迹(ほんじすいじゃく)」の思想が奈良時代の半ばごろから盛んになってくるが、もともとその素地は仏教伝来の当初からあったということだ。
5回目のヘンシンは、4回目の延長線上にあるものだ。
政治面における仏教の影響力が強まるにつれて、弊害も目立つようになった。奈良を中心に栄えた仏教勢力が政治を壟断(ろうだん)するようになってきたのである。このようなこともあって、桓武天皇は在来の仏教のしがらみから脱するために、都を山城国宇太に遷した。平安京である。
このころから盛んになってきたのが修験道であり山岳密教だ。多分に土俗的・呪術的なこれらの宗教が、在来の奈良仏教にかわって政治の中枢に入り込むことになった。ここで登場するのが弘法大師空海だ。
桓武-平城二代の天皇の後をうけて天皇になった嵯峨天皇は、若い頃から空海と親しかった。嵯峨天皇は漢詩文の素養が深く、書においても後に、空海、橘逸勢(たちばなのはやなり)と並んで三筆と称されるほどの能書家であった。これらは多分に空海との親交によるものと考えられており、12歳年上の空海は文芸の道を通じて嵯峨天皇に深く食い込んでいったものと思われる。
同時に空海は、藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)とのつながりも深かった。
藤原冬嗣は、空海より一歳年下の同年代の人物だ。冬嗣は藤原氏の北家(ほっけ)の繁栄の礎(いしずえ)を築いた人物であり、北家はその後長く藤原氏の「氏の長者」として日本の政治の中核を占めるようになる。
空海の役割は、藤原北家と天皇家の繁栄、つまりそれぞれの直系の子孫が永続することを思想的かつ政治制度的に完成させることであった。
つまり、空海の打ちたてた「東密」は、単なる仏教の一流派ではない。本地仏を大日如来とし、大日如来の化身が天照大神とするもので、日本の神話と一体となった「神仏同体説」にほかならない。
政治的側面からのポイントは、天皇を現実の政治から切り離したことである。天皇が自らの意志だけでは後継天皇を決定することができない政治システムが確立されたということだ。これは同時に、天皇の外威として政治に影響力を持つことになる藤原北家にしても同様である。北家の意志だけで天皇を決めることができなくなったのである。政治の独裁体制を防ぎ、天皇家、北家、あるいはその他の貴族がそれぞれに牽制し合う政治システムだ。
その後明治維新まで1000年にわたって続く「象徴天皇」の始まりである。
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ここで一句。
(スナックで他のグループのカラオケを聞かせられるが如し。)
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